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スペイン巡礼紀行文(2018年5月27日)

5月27日 Sobrado/Arzua 22km 37000歩

 昨夜の午後7時から宿泊した修道院のミサにオブザーバーとして出席した。今回のカミーノの旅では初めての経験だ。厳かな雰囲気のなかでセレモニーが進行していった。朗読と讃美歌はラテン語で、スピーチはスペイン語のようだった。スペイン人は学校でラテン語を学ぶと言うが、実際に話せる人は少ない。修道院や教会の公式の言語として、ラテン語がまだ使われているのだ。ラテン語が話せるとカッコいいと思う。来年までに少し勉強して簡単な話くらいできるようになりたいが、どうなることやら。

 それにしても、中世には人々はみんな神様の存在を信じ、巨万の富が教会に集中していた。そのため、どんな田舎に行っても立派な教会が村の中央で聳えている。その後、カトリック教会は腐敗、堕落したため、宗教改革が起きた。ルターは信念の人ではなかったようだが、「聖書に戻れ」と言ったところ、社会が動き出した。彼も驚いたに違いない。そして、人間性に回帰するルネッサンスが起き、産業革命を迎え、現代へと繋がっていく。

 現代人は神様を信じず、もっぱらマネーとサイエンスを信じている。それ自体を非難しようとは思わない。私が不思議に思うのは、人間は神様を信じたかと思うと、時代が変われば、簡単に神様を捨てられる柔軟性だ。どうしてこんなことができるのだろうか。僅か数百年の間に、人間の精神世界が様変わりしたのだ。人間歴史は人間の発展ために神を創造し、必要がなくなればそれを捨て去ってきたのか。

 仮に、人間がマネーとサイエンスしか信じない時代が長く続くようであれば、人間の行動も意識もすべて物質の法則に還元されてしまうつまらない存在に堕落してしまうのではないか。そう考える私自体がすでに時代から取り残されているのだろうか。人間は何のために存在するのか。その答えがないとすると、ではどのような状態のときに最も幸福を感じることができるのだろうか。

 やはり、人間は自然界のスピチュアリティに敬意を持ち、人々の善意を信じる魂を抱くかけがえのない存在であると信じたい。唯物論の行きすぎはよくない。

 今日はマルタ人のロバートとずっと駄弁りながら歩いた。印象に残っている話題は、中世の天才画家カラバッジョの絵画がマルタの教会に掲げられていることだ。カラバッジョは、それまで静かでもの悲しかった宗教画に革命を起こした。強烈な光と暗い影を大胆に採用し、人々を生き生きと描き、絵画の歴史を変えてしまった。
 ロバートと話をしていると、ますますカラバッジョの絵画を見るために、マルタに行かなくてはならないという気持ちが強くなった。

 イタリアの南の地中海に浮かぶマルタの産業は観光と金融であるそうだ。ロバートは投資の仕事に携わっていて、当面の投資先はリスクはあっても中国だと断定する。日本企業は高い成長は期待できないが、落ち込みも少ないので安全な投資先と見なしていると言う。

 それにしても、彼は私が以前に話したことをほとんどすべて覚えていた。私が彼の名前を思い出せないでいると、チクリと私を批判した。

 今まで北の道を歩いてきたが、ついにフランス人の道と合流した。巡礼者がぐんと増えた。フランス人の道を歩いて来た巡礼者は小奇麗で、ずいぶんリラックスしているように見える。北の道を歩いてきた巡礼者はみんな「ここは別世界だ」と言い合っている。人混みが好きでない者が多いようだ。

 オビエドから原始の道に入っていったベルギー人男性2人組にも遭遇することができた。2週間ぶりだろうか。これも一種の奇跡のように感じられた。「原始の道の状態はどうだったか」と聞くと、「特に問題はなかった」と想定外の答えが返ってきた。別れた後で雨が降らなかったからかどうかは分からないが、いずれにしても再会できて嬉しい。カミーノでは、いつも小さい奇跡が起きている。