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民主主義と人工知能

 民主主義は歴史的教訓から見て、もっとも人間的な政治制度だと考えられている。
 バカ殿のような決断しない政治や独裁者の圧政に苦しんだり、搾取されたりする悪政は人間支配の悪だと思われている。一般庶民の願いが叶えられるボトムアップ型の民主主義こそ理想に近いと信じられている。
 しかし、味方によっては民主主義こそ怖いシステムはない。独裁者ヒットラーを生んだのは民主主義そのものである。民衆は移ろいやすい。理性を失い熱くなると国家を破滅へと導く恐れを孕んでいる。

 人間に我欲があるように民衆は自己中心的だ。税金は払いたいくないと常日頃思っていて、年金は多い方がいいと考える。近くに良い病院や保育園があれば良いと要望するが、それらを成り立たせる財政的問題を考慮することはない。それらは政治家や行政マンの仕事だと割り切り、深く考えようとしない。民衆の要望は多分に他力本願的ある。

 人間が矛盾に満ちているように政治も魔物である。北海道の夕張市は財政破綻し、市民生活はどん底に落ちたと信じられていたが、内実そのような簡単なことではないらしい。市民病院のベッド数は10分の1に減少し、公園等の公的空間の環境整備はできなくなった。これらは市民の要望であったが、それらができなくなり、市民は不幸になったのだろうか。そうでもないのが面白いところだ。

 病院のベッド数が激減したため、健康の確保は市政や医者に頼るものではなくなり、自分たち自らが獲得していくべきものという意識が芽生え、運動を増やしたり、体を動かしたりすることが増えた。その結果健康になる者が増え、医療費が少なくて済むようになった。市政のサービスが落ちると、市民の自立心が生まれるのだ。
 環境整備費が削減されると、市民はボランティアで環境の景観を守ろうと活動し始めた。ボランティア活動は市民の連帯感を醸成し、体を動かすことで健康体を確保しやすくなった。

 政治はアイロニーである。民衆はわがままなため、政治に多くを望むが、それらが実現されないと分かると、自らが発起して動き出すのである。なければないなりに、どうにかなるのだ。ここに民主主義の限界がある。民主主義という制度は自己を正当化するために、非民主主義制度の悪い事例を引っ張り出すのだが、独裁者であっても善政を行った名君は少なくない。選挙で選ばれようが、親から引き継がれようが、為政者の能力に依存するのだ。民衆の要望を何でも叶えてあげるような政治は必ずしも善い政治とは限らない。ここにマニュフェスト型選挙の限界も見えてくる。

 政治家は人気取りしないと選挙に選ばれないから仕方がないが、いっそのこと、政治家をすべて人工知能で置き換えてみたらどうだろうか。人工知能は人間の情念や欲望を考慮することなく、合理的な判断を下すことができる。病院のベッド数を増やすと、長期的にどのような事態を招くかを膨大なデータを分析して予測することができる。天才棋士の数倍先を読むことができるように、人工知能は政策の社会へとインパクトを的確に判断することができる。財政規律を守れと人工知能に命じれば、その範囲で市民サービスの優先度を決断してくれる。役人はそれに従って働くだけでいい。政治家がいなくなれば、納税額も随分少なくて済むようになろう。

 人工知能は極端な排他主義やグローバリズムに走ることはなかろう。民衆を甘やかすこともなく、かつ搾取を厳しくすることもなかろう。人間の行動原理を読み、自主性を引き出し、市民が生き甲斐を持てる社会を実現してくれるはずである。政治家は民衆の欲望の権化のようなものではなかろうか。
 高齢者の暴走運転は人工知能による自動運転が解決してくれるように、政治も人工知能によって合理的に行われるような日がやってくるかもしれない。少なくとも技術的にはそれらは可能になりつつある。

 そのような事態に直面したら、人間はどのように判断するのであろうか。人工知能に政治を任せるのか、それとも従来通り自らの化身として政治家を選び、欲望の実現を代行させようとするのか。
 人間は小説、映画、ドラマが好きなように、物語から離れられない。劇場政治であろうが、アベノミクスであろうが、政治もまた一種の物語である。物語を放棄してまで、政治を人工知能に委託してしまうのかどうか。その答えは数十年以内に見えてくるに違いない。人間の正体が暴かれる日は近い。

(2017年8月21日、寺岡伸章)
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