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ジャイナ教

 メディアの関心事は高齢者の問題で溢れているように思えてきた。徘徊による行方不明が年間1万件以上もあることや、身寄りのない孤独死の事件が取り上げられている。人生の終わりは家族に看取られながら往生するのが最高の死に方という暗黙があるようだ。最後が良ければすべて良しというのは一つの理屈として理解できないわけでないが、何事も一歩踏み込んで考えようとするわたしにとって少し違和感を覚えてしまう。

 死に方なんて本人が選択できるわけではないし、ましてや最期が安らかだからと言ってその人の人生がすべて良かったとは限らないし、本人の人格や価値観や実績とは関係がない。むしろ、その人の数十年にわたる生き方そのものこそ問うべきであると思う。最期が幸せかどうかを問題視するのは、むしろ遺族の側が気持ちの上で「〇〇の人生は良かった」と割り切りたいからではなかろうか。自分の両親は幸せな人生を送ることができ、自分も最後の親孝行を務めることができたとみずから納得したいのではなかろうか。人生最期を気にするのは本人ではなく、遺された人々の発想ではなかろうか。

 徘徊老人が行方不明になり、山中で餓死したり、用水路に嵌って水死したりしたとしても、それを不幸な出来事として強調するのはどうかと思う。自宅で静かに孤独死しても、病院で誰にも看取られずに逝ったとしても、それは本人が選択したことではない。それらのイベントを冷静に受け入れる勇気が我々に求められているような気がしてならない。
 死はテレビドラマのように遺族に迎えられるようにはなっていない。死は急いでやって来て、瞬く間に去っていく。それが人生の最期であると認識し、その前の膨大な日々という時間をどのように生きたのかを問うべきだと思う。

 インドに仏教系のジャイナ教という一派がある。これは生き物を殺すことを厳しく戒める宗派である。その宗派の信者は、ある年齢を超えると、財産をすべて処分し、出家するように促される。世間では、お経を唱えて信仰を深めながら、托鉢で食べ物を確保し生を支えていく。病気になったり、老化が原因で路傍に倒れるまでそのような生活が続く。どこで死のうがそれが問題でなく、人生の意味を悟ることができるかどうかが重要なのである。心の状態や信仰が重要問題なのだ。そもそも仏教に限らず、あらゆる宗教において、死ではなく生が重要であったはずなのだが、現代ではそれが逆転し、生きているときの心の平安は個人の問題としてスポットライトが当てられず、死の形だけが重要視されるようになった。まさに、生死の形式化や形骸化が進んでいると思う。
 本人の心の叫びは無視され、肉体の有り様ばかりがクローズアップされてきている。物質文明が極度に発展したためか、精神文化がひどく低い位置に押し込まれてしまっている。これは人間精神の退化である。唯物論がはびこると、人間精神が退化する。モノが溢れているが、心に焦点を当てると、この世は地獄である。

 どこでどのような死に方をするかは重要事項ではない。生きているその時間帯に如何に実感を持って生の有難さを感じることができるかどうかが問題なのである。
 肉体よりも精神や心に関心を寄せるべきである。実存主義を再び。

(2017年4月28日、寺岡伸章)
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