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評価をやめよ

 東京の麹町のバイオテックの社内のある『戸嶋靖昌記念館』に行ってきた。戸嶋は武蔵野美大で将来を嘱望されながらも、指導者の意見に嫌気して、日本を脱出しスペインに渡った。プラド美術館のベラスケスの絵画に強く惹かれたのも渡航の理由だという。その後、スペイン南部のコルドバにアトリエを構え、30年近くも創作活動に専念することになる。
 黒を基調とする戸嶋の肖像画を鑑賞していると、対象者のいのちや魂を抉りだしているように感じられる。強く惹かれた対象者を選んだというが、その人の内部に生命の息吹を感得したにちがいない。衣服や皮膚を破り、そこに宿っている本質的なものを描こうと格闘する。文字通り丸裸にされるのだが、不思議と恐怖感を覚えない。ただ者じゃない。孤高の人だ。

 帰国後、その独創的な絵画に驚いた人に個展を開くように強く勧められたが、戸嶋は断り続けた。激賞され高い評価をされたとしても、評価されること自体を嫌ったと思う。自分の絵画は分かる者にしか分からないという自負があったのだろう。芸術はある基準で(お金や賞など)とやかく言うものではない。そのようなことをやっていると、芸術は滅んでしまうという信念が戸嶋にはあった。
 生きていることの真の意味は自ら知るしかない。そんな大事なものは誰も教えてくれないし、教えることもできない。それは人生の掟なのだ。イヌやネコのように快だけを求めて、悦びを知らず死んでいく者もいる。一方で、いのちや存在の意義を真剣に探究し、その神髄に触れて感動する者もいる。戸嶋はそのような存在の典型だったのではないのか。芸術は一定の基準で評価されるべきものではないのだ。

 科学は普遍的・客観的な知的活動の結晶とされている。しかし、科学者が人生を賭けて探究しているとき、彼らが作動させているのは主観であり直観である。その真理追究の原始的な瞬間においては、科学者も芸術家も同じである。創造性と想像性がほとんど同義語として使われているのと軌を一にしている。
 情報化は科学の産物である論文や特許を定量化し、科学者の成果のみならず、科学者自身の価値を序列化しようとしている。これは科学の危機であり、科学の堕落である。でもデータは今後も徹底的に分析され、科学者は丸裸にされていくにちがいない。居心地が悪くなる。情報化はややもすると、研究成果の評価の形式化や形骸化を招き、科学活動を歪め、科学者をダメにする。そのような閉塞的な状況に新風を吹き込み、科学を蘇らせるのは野生の思考や自然そのものの感動かもしれない。科学も再生を待っている。

 芸術も科学も本質において同じであり、同様の危機に陥る可能性がある。
 活力の鍵は、自然そのものであり、いのちそのものであり、魂であり、その奥に潜む神性である。それにビビッドに感応しない限り、芸術も科学も衰退し、ひいては人間は人間性を失っていくのではなかろうか。これが起こっているのがまさに近代社会そのものである。近代は物質的に豊かでも、豊穣な時代ではけっしてない。人間性を失い、醜い時代に如何に生きるかは難しい課題である。
 つまらない軽薄な評価を気にすることなく、本質的に大事なものを追究していきたいものだ。

(2017年3月22日、寺岡伸章)
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