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ワクワク、ドキドキ

 人間は言語を使うが、それではなぜ言語が存在するようになったのだろうか。それは目に見えないものを共有するしたいという欲求からである。モノが目の前にあれば、言語でとやかく説明する必要はないが、その場にないモノや抽象的な概念(夢、希望、平和、愛等)を表現し、相手に分かってもらうためには言語が必要になる。

 人間は一人ではか弱い存在であるため、集団で行動し、社会を作ったが、家族や社会の構成員と共感し合う能力は他の動物とは群を抜いている。つまり他人からの評価が自己存在の意義を見出してくれる。だから、仲間から無視されるのは非常に辛いのだ。人間は自ら自分の価値を規定できないのである。周囲から認められて初めて生き甲斐を感じられるのである。言葉は共感能力を強化するために発明されたと言える。

 いずれにしても、言葉の発明は科学を生み、文明を進化させた。科学を行う者、つまり科学者は人類がまだ知らない概念を創造するために、自然界の謎の森を一人で歩かないといけない。他人と共通の目標を持って集団行動するのではなく、オリジナリティを追求するため、孤独に耐えないといけないのだ。しかし、それは最終的に人類に貢献することであり、共感できるものを作ろうという行為そのものである。科学者は一人で森の中に入って行くが、目的地に辿り着けば、その存在が知られ人類共通の場になる。

 科学は客観性を装うが、客観的なものそのものはあまり面白くない。面白いのは主観的なものだ。主観的段階のものと言い換えた方がいいかもしれない。科学者が悦びを感じるのは一人でもがき、発見や発明のダイナミズムに我が身を捧げてワクワクしているときであり、それを誰かに説明する段階ではない。人々に理解してもらうには客観的で合理的な説明が必要なのであるが、じつはそれ自体は退屈な作業だ。分かってもらえたとしても、その楽しみは質が異なる。政府は一流の研究者にアウトリーチ活動を義務付けているが、科学者の本質を知らない愚行のようなものだ。納税者への義務だとか叫んでも、そのような活動は有能な科学者の時間を無駄に消費するだけである。科学者の心は政府にも一般国民にもあまり理解されていないのである。

 科学的知識が成熟し緻密化されてくると、科学は貧困化し、カオスや野蛮を求めるようになる。ちょうど写実主義がピカソや印象者の画家を誕生させたようなものだ。科学を面白くするために、既存の知識体系の破壊者が必要になってくる。人間の知識の体系化には自ずと限界があるため、自然に学べと叫ぶ者が出現する。動物の生態や自然の営みには人間の知性は叶わない。それは美しく、人々を魅了して止まない。自然から学ぶというゼロからの出発が必要になってくるのである。
 つまり、文明が進化し、行き詰まっても、その壁は打破できるという希望と夢があるのだ。いや天や宇宙から与えられていると言ってもいいかもしれない。人間は面白いことやワクワク感を感じずにはおられない。それは性による官能よりも根源的で深いものだろう。それは人間存在理由と切り離せるものではない。

 関西風に言えば「おもろい」を求め、まずは「やってみなはれ」という軽い気持ちが最初の一歩である。この一歩が踏み出せれば、目標は半分実現したようなものだ。科学も事業もやれば何でも面白く、世の中は面白いことで溢れている。それを感じる鋭いアンテナを常備しておくことも大切だ。これは他人から教えてもらうものではなく、自ら学ぶものである。人生は自ら探求するしかないのだ。

 人生を楽しむためには、深く考え、柔軟に発想し、気楽に行動することだ。ワクワクさせられる謎とその回答はいつでもどこでも用意されているのだから。

(2017年3月17日、寺岡伸章)
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