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ディスカウント散髪

 わたしはあまり身なりに頓着していなかったが、服装は気になり始めた。仕事着のスーツは毎日のことなので、新しいワイシャツとネクタイを取り替えるだけでいいと思っているが、休日の普段着はそういうわけにはいかない。同年配の人が道を歩く姿をみると、服装でずいぶんと印象が異なる。ヨレヨレの服を着るのは御法度だが、自分に似合うものとなると選ぶのに苦労する。率直に言っておしゃれ感覚があまりないのだろう。もっぱら妻の意見を聞いて選ぶのだが、これも訓練と習慣と思い、自分に合うのはどれかと気にするようにしている。良く生きるためには、中身と同様に外見も重要なのだと思う。

 しかし、散髪となるともっと戸惑う。どんな髪型が似合うかよりは、サラリーマンらしい個性があまりないのが好ましく思う。女性ならば、髪型にも相当に気を遣うのだろうが、男ならば定期的に散髪屋に行って、長く鬱陶しい髪という印象を相手に与えないのがいいと思う。
 以前は行きつけの散髪屋があり、世間話をしながらやってもらっていたのだが、北区への引っ越しを契機に適当な散髪屋を探していたのだが、近所に見つからない。散髪にもディスカウントの波が押し寄せ、カットだけならば千円程度で済ませられるようになった。シャンプーも髭剃りもない価格破壊であるが、10分で終わるのはやはり有り難い。廉価には逆らえず、価格破壊活動に応じるようにした。そんなわけで、最寄りのJRの駅近くの散髪屋に行くことに決めた。

 4週間前に行ったときのことだ。休日だったので少し混んでいた。
「どうしますか」と男性の理容師に聞かれたので、「1か月分カットして下さい」と返事した。
 ハサミの捌き方がうまい。髪の毛を切る心地よい音がする。音楽を聴いているような芸術的な気分になる。散髪もいつもこのような気分にさせてくれるのは悪くないと思う。作業は5分ほどで終了し、眼鏡をかけて長さを確認して欲しいと促された。
 眼鏡をかけて後ろ髪を見ながら、右手で触れてみると、もう少し短い方がいいと思い、「もう少し短くしてくれませんか」と言った。
 すると、意外な言葉が返ってきた。
「これより短くなると刈り上げてしまうことになります」と、言下に、混んでいるのでこれで勘弁して下さいと言われたと思った。わたしはあっさり引き下がり、その場を去った。
 散髪でさっぱりしなかったが、心は晴れなかった。切った長さを確認するとは言っても、それは一連の作業上のマニュアルであり、それに異議を挟むのは本来想定されていないのではなかろうかとも思った。そういう暗黙のルールなのであれば、従わなければならない。帰宅後、妻に短くなったように見えると聞いたが、「少しだけね」と答えるだけで、ハンサムになったとは言ってくれなかった。

 昨日、髪が再び伸びてきたので、同じディスカウント散髪に出かけた。今度はさらに混雑していた。しかも、前回は3人の理容師が勤務していたが、今日は2人だ。そのため、通常長くても15分で自分の番が回ってくるのだが、30分以上かかる見込みだ。それでも、マシーンに1万円札を挿入し、散髪券を購入した。後ろ髪の長さに鬱陶しさを感じていて、もうこれ以上ガンマンできないと思っていた出直しはない。前回の理容師さんも勤務していた。他の理容師さんに比べても要する時間が短い。手際が良さそうだ。

 わたしは時間つぶしのため、スペイン語の自作の単語帳を持参し、目を通していた。発音した方が覚えるのに好都合なのだが、静かな雰囲気を壊すわけにはいかない。時間が過ぎていった。座って待っている人で、自分が3番目になったときカウントして見ると、前回の理容師に巡り会うことはなさそうだ。安心した。小さいことであっても、気まずい思いはやはり避けたい。
 正午になった。すると、もう一人女性の理容師が出勤してきた。3人態勢に戻ったのだった。想定していた順番がズレることになる。もしかすると、やはりそうなった。

 前回の理容師が「お次の方どうぞ」とわたしを散髪用の椅子に座るよう促した。わたしは言われるまま座り、「今日はどうしますか」と聞かれたので、前回と同様に、「4週間分短くして下さい」と返事をした。すると、「刈り上げをしない程度ですね」と答えてきた。ふと、前回のことを覚えているのだと悟った。わたしがもっと短くして下さいと言ったことを思い出したのだと思った。再び、髪を切る音を聞きながら、わたしは心地よさに身を委ねていた。やはり5分ほどで終わった。

 鏡を通して後ろ髪を見ながら、右手で髪に触れた。前回よりも短く、わたしの意図した長さに仕上がっていた。ドンピシャリだ。理容師とは言葉を交わすことはないが、こちらの心を見通していたのだ。これがプロというものだろう。

 自宅に帰ると、散髪したのが分かるかどうか、妻に聞いたが、「言われれば散髪したのかなと言う感じ」と頼りない。でも、わたしの心は晴れていた。こちらの意図が相手に伝わっていたのである。心もすっきりしたのだった。

(2017年2月13日、寺岡伸章)
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