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イノベーション

啓発

 人と話をしていて、ワクワクした気持ちになることがときどきある。それは多くはないが、そのような気持ちになると、夢中になって議論を展開したくなる。でも、どんな話題がでたときにそのような心地よい興奮気味の気分にさせられるのだろうか。
 まず、どこかで聞いたような議論では人の関心を呼ぶことはできない。新聞やテレビで取り上げられ、すでに既知となってしまったことは感動を呼ばない。聞いていても眠くなるだけだ。新鮮さが重要なのは言うまでもないが、新しければいいというわけではない。

 新鮮であるだけでなく、生命の躍動感がないとダメなような気もする。あるいは、真実に迫ろうという強い意志や勇気があれば、その議論は迫力が出てくる。ワクワク感の源泉は弾ける生命であり、真実の探求であると思う。これはまさに、科学そのものである。生命と物質の真の姿を明らかにすることが科学である。人は生まれながらにしてそれらを探究したい好奇心を持っているのだ。

 ただし、そこで疑問に思うことがある。旺盛な好奇心を持つと、この世界が輝いて見えるようになるが、ではそのように仕向けてくれるものはいったい何なのだろうかと。相手の話を聞いたり、自分の説を展開しているとき、突然いいアイデアが閃くことがあるのだが、それは何がそうさせているのだろうかと思う。

 「啓発」という言葉を最近大切にしている。知的好奇心が全開になったとき、心が弾けたような気分になる。このとき、啓発を受けたような気分になる。それは天上からやってきたものかもしれないし、身体の底から湧き出てきたものかもしれないし、地下の深いところから流出してきたものかもしれない。いずれにしても、人間業でないように思えるのだ。

 1月上旬、中国に出張した際、創造的科学研究の創出方法について中国科学院の幹部と意見交換したのだが、幹部は別れ際に、啓発されたと言っていた。わたしも啓発的な議論だったと即座に同意した。
 優れた科学研究には、十分な研究費や優秀な人材が必要とされるが、もとより情熱、執念、直観が大事だということを、山中教授、赤﨑教授、大隅教授らのノーベル賞受賞の背景を分析しながら述べた。科学研究は論理的で合理的な行為のように一般には受け止められているが、大発見や大発明の究極の場において、発揮されるのは人間くさい情熱であり、執念であり、直観なのだと思う。これらの人間精神が存分に発揮された末に、どこかからご褒美のようにもたらされるのが世紀の発明である。それは啓発と呼んでもいいのかもしれない。ご褒美をくれる存在は神かもしれない。神が人間に与えるシグナルが啓発ではなかろうか。

 気の遠くなる宇宙で存在を認識しているのは人間だけではあるまい。そこには人智では信じられない存在もあるはずだ。人間は探究心を活用して、人間や生命や宇宙の謎を解こうとしている。その過程の人々の議論において、啓発が生まれてくるのだろう。それは人々に快適な気分にさせるがゆれに、絶対的に正しいことのように思う。
 啓発を信じ、それをもたらす友人を大切にしていこうと思う。

(2017年3月3日、寺岡伸章)
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突然の指名

 昨年の秋のことなのだが、科学論文の収集と分析を商売としている外資系企業の主催している若手研究者を対象とした科学賞授賞式に出席したときのことだ。わたしは最先端の科学研究の内容に興味があったためやってきたのだが、受賞理由を読んで理解し、勉強になったと満足していた。

 江崎玲於奈ノーベル賞学者の記念講演会の後、授賞式が執り行われ、最後にレセプションが開催されることになった。せっかくの機会だからし、喉が渇いていたので、シャンパンを少し飲んで帰ろうかと気軽に考えていた。
 すると、主催者側の人がわたしの席にすり寄って来て、レセプションに参加してもらえるかどうか聞いた。わたしは、えぇと返事をした。すると、レセプションの乾杯の音頭を取ってくれないかと頼まれた。わたしは驚き、固辞したのだが、今更帰るとは言えない。また、他の出席者を見ても、若い人が多く、適任がいないことが咄嗟に判断された。困った。じつに困った。
 いったい何を話せばいいのだろうか。頭が混乱し、掌に汗が出て来て、しかも心臓の鼓動も高くなった。こんなところで、心臓発作か何かで倒れでもしたら冗談では済まされない。
 受賞者の皆さん、おめでとうございます。今後とも頑張って下さい。乾杯!のようなものではダメだろう。このような知的雰囲気の場では、何か気の利いたようなことを言わないといけない。そう考えると、ますます何を話していいか自分を追い詰めてしまう。

 主催者の短い開会の挨拶があり、すぐにわたしが乾杯の音頭役として指名された。その間、わずか5分。わたしは日頃考えていることを思い浮かべた。研究者の厳しい環境を引き合いに出し、研究助成機関や政府が一段となって智恵を出して危機を乗り切ろうという趣旨の話をして、最後に乾杯の音頭を取った。ライバルである中国科学の昨今の躍進振りを事例に出すことも忘れなかった。役割を終えるとスッキリした。

 でも、拍手が終わるとすぐに、隣で聞いていた江崎玲於奈先生が待ってましたとばかり、わたしの話を受けて、受賞の若手研究者に研究環境や要望について一人一人コメントを求めた。受賞者たちは比較的恵まれた研究にあるらしく、特段の不満は聞かれなかったが、それでも聞くに値するコメントが得られた。
 それが終わって、江崎玲於奈先生と少し言葉を交えて分かったことがあった。3年連続のノーベル賞受賞を記念して、NHK(だっと記憶しているが)がパネルデスカッションを行うことにし、突然江崎玲於奈先生に出演して欲しいと依頼があり、テレビ局に出かけていったのだが、自分の研究に熱中しているあまり、最近の研究者を取り巻く状況を把握していないため、思うようなことを語れなかったようだった。江崎先生はそんなことを思い出したため、いい機会だと思い、受賞者に質問したという。大学者は勉強熱心だと感心した。
 江崎夫人は夫も健康を気遣い、もう退席しましょうと言って二人で静かに消えていった。大学者でも突然の指名に困ることがあるのだと思い直したのだった。

 昨日も似たようなことがあった。
 慶応大学の博士課程大学院生の研究成果として「政府への政策提言」の発表会があり、若い人は何を考えているか知りたいとノコノコ思い出かけていった。会場では、健康長寿社会を作り上げる上で政府は何をすべきかという様々な提案がなされ、質疑応答が続いた。わたしは専門外のところに来たなと思い、少し居心地の悪い思いをしていた。途中で帰ればよかったのだが、失礼になると思い、最後まで発表と質疑を聞いていた。でも、知らないことが多く、勉強になったのは収穫だった。

 最後に主催者の挨拶が始まり、これで終わりだ、帰れると思った。すると、主催者は形通りの挨拶を自分がするよりも、会場から適当に指名して感想やコメントを求めた方が面白いと判断した。学生の指導教官や千葉大学の教授が指名され、手短にコメントを話した。これはやばいと思い始めた。当たらないと思うが、指名されたらどうしようかとパニックになった。何か気の利いた話題はないか、指名されたら何を話せばいいのか、頭がフル回転をし始めた。心配は的中するものだ。わたしの名前が呼ばれ(その時、世の中は甘くないと思い知らされた)、前に踏み出た。その時、よしこれを話そうとアイデアが浮かんだ。神の救いの手である。話ながら会場を見ると、数人の人がうなずながら聞いてくれていたので、安心した。
 非常に緊張したのだが、会場を後にして最寄りの地下鉄の駅に向かうときには、清々しい気持ちになっていた。

 帰宅後、今日起こったことを妻に話した。指名されなければいいと常に思っていること、緊張しながら話したことなどだ。すると、妻は言った。
「あなたは逃げようと思ってもだめなのよ。指名したくなるような顔をしているのよ」
「冗談じゃない。その場になると、指名されないよう小さくなって下を向いているんだから」
「それでも無理ね。存在そのものが指名しやすいのだから」
 と酷いことを言う。

 そう言われて、子どもがまだ小学生だった頃の豪州家族旅行を思い出した。映画パークに行ったときのことだった。スタジアムのようなところで、映画のセッティッング場面を背景にスタントマンによる格闘が繰り広げられるのだが、開始10分くらい前に我々家族は会場に到着した。そのとき、ピエロみたいな道化師が何かパフォーマンスをやりながら、数百人規模の会場を沸かせていた。我々家族4人は道化師に捕まり、笑いの「道具」にされてしまった。少し恥ずかしかったが、子どものいい思い出にもなると思い、納得したのを思い出す。でも、子どもはまったく覚えていないというが。我が家族はそのような場面で「餌食」にされやすいのであろうか。

 そう思いながら、次の映画スタジオを訪れた。キャスターが一人足りないと司会者が突然言いだし、数十名の中から適任者を物色し始めた。わたしたち家族は後ろの方に立ち、誰が選ばれるのだろうかと推移を見守っていた。すると、司会者がわたしの方に指を差しているではないか。えぇと小さな声を出した。また、出演させられるの? 不思議に思った。
 わたしの配役は戦闘機のパオロットで、豪州人の相棒が後ろに乗っている。敵機と戦闘をするという設定のようだが、わたしは戦闘機の模型に乗って操縦しているだけで、あらすじも何も分からないし、だいいちどのような画面がスクリーンに映っているかさえまったく分からない。後で妻に聞いたところでは、わたしの搭乗していた戦闘機は撃ち落とされて地上に墜落し、そのとき子ども達は「お父さんどうなってしまうの」と心配そうに訊ねたという。

 まったくなぜか説明のしようのないことを2度連続経験したのだった。なぜ選ばれたのか。ビックリカメラの出演かとさえ思ったくらいだ。
 自分ではよく分からないが、その頃の「悪運」はまだ継続しているのだろうか。妻に豪州旅行の謎についても意見を聞こうかと一瞬思ったが、やめた。妻の口から何が飛び出すか分からない。傷ついてしまうような言葉は聞きたくない。

 わたしはそれでも心配になり、姿鏡に自分の前身を映し出してみた。後光は差していなかった。神がかってはいない。ホッとしたが、何だか少し寂しいような気持ちにもなった。

(2017年2月28日、寺岡伸章)
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仕事エネルギー

 定年退職まであと1か月半となった。35年のお勤めだったが、過ぎてしまえばじつに早いものである。でも、一年一年を丹念に思い出していくと、色々なことがあった。20歳代や30歳代に毎日のように終電まで働いた(働かされた)こともあった。忙しかったけれど、よく分からないが楽しかったと思う。よくもあんな元気なエネルギーがあったものだと懐かしく思い出される。
 でも、あのころの若者が今の自分の過去であったとは到底思えない。顔かたち、性格、能力は大きく変わっていないが、同一人物とは言えない。人間は変化するし、それが長い時間かけて起これば、もはや元の人間とは言えないほど変貌を遂げている。いい意味でも、悪い意味でも。同じことはこれからの人生でも当てはまる。10年後あるいは20年後の自分は別人である可能性が高い。人は否応なく流転する。

 4月上旬からどのような生活が待っているのだろうか。毎日が日曜日になるので、現在週末にやっていることを平日にやるようになる。週休2日が週休7日になると言えば分かりやすい。
 ただし、収入はゼロになる。今までも給与は銀行口座に振り込まれ、妻の管理下に置かれていたのだがら、あまり大きな変化はないかもしれない。ただし、お小遣いの額は急減することは間違いがない。これをどう乗り越えるかが課題となりそうだが、泥棒でもしない限り貯金を崩していくしかない。

 毎日仕事に費やしている時間は通勤時間も含めると10時間にも及ぶ。勤務中は集中しているため、これに費やされているエネルギーは凄い量だ。このエネルギーの着地点を探す必要がある。しかも、せっかく宮使いから自由の身になるのだから、単純作業ではなく、創造的なエネルギーを発揮していきたい。単なる筋肉エネルギーの消費ではなく、芸術的創作活動をやってみたい。あるいは、震災復興支援や環境保護活動など意味のある社会活動でもいい。

 芸術と言えば、美術、音楽、映画、小説、陶磁器など幅広い。自ら創作するものあれば、鑑賞する場合もある。美術一つとってもデッサン、油絵、水彩画、水墨画、版画などこれも種々雑多だ。音楽も映画も小説も無限にあるといってもよい。何百年生きてもやりきれるものではない。旅行も実践的芸術活動と見做すと、さらに広い概念になる。
 人間の歴史は創造的な活動を行い、それを後世に遺すことだったのではないかとさえ思うときがある。江戸時代の絵師は思ったことだろう。心血を注いだこの作品を遺すことが生きることそのものだと。まさに命がけだ。

 絵画はデッサンから手を付けようと入門書を買ってボチボチ開始したところであるが、趣味として定着するかどうかはやってみないと分からない。ましてや、過去の芸術家のように生き様を賭けた作品まで昇華させることは不可能に近いだろう。
 音楽でも何か簡単な楽器を演奏できるようになりたいものだ。デッサンでも楽器でもできるようになると、自己の表現方法を増やすことに直結する。表現すべき何かを自分が明瞭に持っていることが課題となる。描写でも音でも作文でも表現方法の拡大だ。言葉では伝えられないものを伝える。それが伝わったという実感を得ることは素晴らしい。外国語学習のようにコミュニケーションの獲得だ。

 毎日が日曜日とは素晴らしいことではないか。組織の目的遂行に合った業務という狭い世界から解放され、自分の内面の充実とその表現が創作活動である。人間本来の知的好奇心を向上される作業である。
 AIの進歩の目的は人間を労働から解放することである。早くそうなって欲しいと願う。芸術活動で競争する方が、所得の額で競争するよりも健全だと思うのだが。

 人生の太陽は午後4時の位置にある。沈む前にまた輝きたい。今度は創造性という華を咲かせたい。時間はあるようで意外にないのかもしれない。

(2017年2月14日、寺岡伸章)

二つの選択

 Anthropoceneという言葉を知っていますか。人新世や人類世と訳されているもので、人間が生態系や気候に影響を及ぼすようになった地質的な時代のことのようです。ドイツ人のノーベル化学賞学者のパウル・クルッツェンの造語なのだが、その期間の定義もおろか、学術的な意義も含めて議論は収斂していないようです。地質学的には最後の氷期が終わる1万年前から現在までをHolecene完新世と呼んでいるのですが、Anthropoceneを地質学的歴史の中で定義できないという異論もあります。また、定義するとしてもAnthropoceneはHoleceneと同じ期間という意見や1610年以降、いや産業革命以降にするなどのアイデアがあるようです。

 生物進化における人類の出現は特別なことです。大気中の二酸化炭素の濃度一つとっても、産業革命以降は短期間で急激に増加しています。こんなことは火山の大爆発を除くと地球の歴史に前例がありません。化石燃料は人間が快適さのために大量消費したため、あと半分しか(半分も?)残っていません。このまま進むと人類は危機的な状況に陥るのではないかと警告を鳴らす賢人は大勢います。
 日本の戦後史は自虐史観と唱える保守派の政治家の指摘を待つまでもなく、人間の近代史もまた反省ばかりの人類文明史のように見えます。知性的で良心的な人々は内省的であり、後悔を好む傾向があるのかもしれませんね。絶滅した生物種のように失われたものに愛着を感じ、美しい地球を守ろというのは、思いやりに溢れた心のなせることです。人間らしい優しい心の発露だと思います。

 最近、東京オリンピック組織委員会は金銀銅のメダルを、使用済み携帯電話や小型家電からリサイクルして作ると発表しました。リサイクルの方がまだコストはかかるのですが、循環型社会を作る上でオリンピックを国民覚醒のきっかけにしたいようです。経済性は悪いのですが、このようなメッセージは好ましく感じます。人間の優しい心の表れですし、あるリーダーにとっては政治的メッセージに使われることでしょう。

 人間は地球上の隅々まで生息しています。80億人にまで膨れ上がった繁栄・成功した生物種です。毎年3か月も寿命が伸びていますから、人間の生命力は凄いです。地球温暖化が進展し、今世紀末まで平均気温が2~4度まで上昇しても、かなりの人間は生き残れます。繁栄する大都市は高緯度域に移動するかもしれませんが、生き残るためには仕方がありません。今の海岸沿の大都市は水没しまうでしょうが、世界の態勢に影響がありません。
 食料危機が心配と言う人もいますが、地球上には100億人の人口を養う土地があります。万が一、世界第三次大戦が勃発し、世界中の核兵器がすべて使われたとしても、シェルター内で数日過ごせば、放射能濃度は適応できるレベルまで低下します。シェルター内に入れない人々は犠牲になると思いますが、それでも最悪でも人口が10分の1になる程度でしょう。地球の浄化作用や回復力は目を見張るものがあります。人間の影響力が及ばなくなると、瞬く間に文明以前に戻ります。地球の回復力も人間の生命力も驚くべきものです。

 しかし、そうであっても、人間は天使のような思いやりの気持ちを持っているため、テクノロジーの発展と制度設計により、地球破壊を食い止めると同時に人類の繁栄と幸福を願っています。村上春樹のスペインでの演説を待つまでもなく、地球上で安心して生きるために、核技術を放棄できるかどうか試されていくことでしょう。地球や生物進化の強靱性に頼ることなく、優しい心を持ったままで地球と人類の共生を目指すのは素晴らしいことだと思います。それが成功するかどうか分かりませんが、人間の心の進化に委ねようとしています。挑戦したり、努力したり、悩んだりするのが人間の宿命であり、また楽しみなんですね。好きこそものの上手なれです。結構なことです。

 人間の選択には二つの道があります。繁栄を重視し悪魔のように突き進むか、それとも天使のような優しい心を大事にして共存に心を砕いていくか。前者でも後者でも人間は生き延びると思います。ただし、生き延びた後の人間のあり方はずいぶん異なるものになっていることでしょう。
 難関にチャレンジしたあとの人間は大きな智恵が身についているはずです。それは現代人よりももっと優れた存在になっていることでしょう。優れたというのは「神」に近づいたという意味です。それを目指すのは人間の宿命なのかもしれません。

(2017年2月14日、寺岡伸章)
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破壊願望

 サイコパスという言葉は、映画『サイコ』、『羊たちの沈黙』、『悪の教典』などの影響で冷酷な殺人者という悪いイメージが強い。でも、サイコパスというのはそもそも心理的傾向を示す心理学上の専門用語であり、悪くも良くもないニュートラルな意味しかない。
 でも、人口の1%はサイコパスと言われているから、本人もそれを知らずに生きている可能性は高い。サイコパスの特性には、冷酷、無慈悲、恐怖心を持てない、後悔しない、自己中心、集中力が強い、合理主義、結果至上主義、利得主義が挙げられる。冷酷さや思いやりのなさは通常に人々から見ると、コミュニケーションの基本を欠くとして恐れられるのだが、彼らは普通の人々がパニックに陥るような場面でも、冷静で合理的な判断をすることができるので、必ずしも悪い面ばかりではない。凡庸な人々は人間関係に脳の大部分を使うため、それだけで疲れてしまうが、サイコパスは自己中心で打算的なため、生産的なことに頭脳を使う。合理的な判断や損得勘定が特異な人が多く、IQも高い者が多いと言われている。そのような彼らは、時によって、カリスマ性が高く、プレゼン力があり、コミュニケーション力や戦略性を発揮する。そのため、企業経営者、政治家、外科医、弁護士などはサイコパスが多い職業と言われる。歴史上の人物では、織田信長、ヒットラー、毛沢東、スティーブ・ジョブズがその典型例と分析する専門家もいる。強烈なリーダーが備えるべき能力と考えられるのだ。

 知的障害者や発達障害者で特異な才能を発揮するサヴァン症候群と呼ばれる人々がいる。ダスティン・ホフマン演じる、映画『レインマン』のレイモンド役でこの症候群が有名になった。彼らは計算や音楽や絵画で抜群の才能を発揮する可能性がある。
 特定の分野に強いこだわりを持つアスペルガー症候群には数学者が多いと言われている。難解で抽象的な世界を理解し、思考を続けられるのだから、常人では窺い知れない。でも、このような人々は学問や文化の発展に必要不可欠な存在である。

 サイコパスやサヴァン症候群がなぜ人間社会に存在しているのだろうか。それは進化の過程で解明されなければならない。生物は生存のために種の多様性が不可欠だと言われる。急激な環境変化の際に、能力を発揮できる個体が必要になる。民族の危機が迫ったとき、全員うろたえていては存続は不可能だ。サイコパスは人の感情にも無関心であるが、危機に際しても冷徹であり、合理的な判断ができる。このような事態に陥ったときに彼らが活躍する機会が訪れると考えれば、細々と存続してきた理由が分かる。

 優れた企業経営者や政治家も同じだろう。危機的な状況下で、一部の仲間を平気で切り捨てられる冷酷さがなければ、全員が滅んでしまう。平和なときには、異端視されがちなサイコパスは社会変革の際に希求されて、登場してくる。旧社会を打破し、新しい時代を切り拓くためには常人には狂気にみえる指導者が必要なのだろう。生物進化の厳しい掟である。

 さて、トランプ大統領はなぜ選挙に勝ち、登場してきたのだろうか。彼を担いだのは閉塞感に打ちひしがれている貧しい人々である。努力すれば報われるという理想はウソだったと信じている白人たちだ。従来正しいとされてきた米社会の理想は行き詰まり、改革の時を迎えているのかもしれない。トランプ大統領はサイコパスである。
「米国第一」はとりもなおさず、自己中心主義である。過去にやったことを後悔するこもなく、根拠のない自信に溢れている。思慮が深いとも思えないが、人々を熱狂させられる素質は十分だ。旧体制を支える学者やマスメディアがトランプ大統領を敵視しているのは、ドヴォルザークではないが、新しい新世界に踏み出す新大統領を恐れているからだろう。

 彼は民族対立という米国のタブーに触れてしまった。パンドラの箱を次々と開けようとしている。狂気の沙汰ではないと思われがちだ。これを民主主義の危機と呼ぶのは自由だが、民主主義はこのような人物を定期的に選んできたのも、歴史の曲がり角に来ているからだろう。時代はサイコパスの遺伝子を必要としているのかもしれない。創造は破壊や混乱とともにやってくる。技術イノベーションもサイコパスによって加速化されるだろう。

 トランプ氏の台頭を怖いもの見たさに、期待している自分がここにいることに気がつかされる。普通の人々はこのままでは大事な秩序が壊れてしまうと懸念しながらも、毎日トランプ氏が巻き起こす次のニュースを楽しみに待っている。サイコパスは人の心の底に渦巻く破壊欲望を刺激するのがじつに巧みである。

 彼が連れて行ってくれる場所はどこなのだろうか。天国とは思えない。地獄になる可能性は高い。それは心理的に我々が選んだものかもしれない。人間とはかくも不可思議で、恐ろしい動物なのだろうか。

(2017年2月13日、寺岡伸章)
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細菌は人の味方

 細菌は病気の元になるとして嫌われてきたが、最先端科学は考え方の見直しを迫っている。過去あまり問題にならなかったアトピーなどのアレルギーはじつは清潔が身体に良いとして細菌を排除し過ぎるために起こっていると理解されるようになった。免疫系は病原菌を排除するシステムと長い間信じられてきたが、免疫系は身体に棲む細菌によってコントロールされていることが分かり始めた。皮膚表面の微生物の層は病原体の侵入から守っているのである。寄生虫でさえ、アレルギーを防いでいるという研究成果もあるほどだ。

 いったい細菌と身体の関係はどうなっているのだろうか。どう理解すればいいのだろうか。
 人の体内には全細胞のじつに10倍の細菌が棲んでいるのだ。つまり、我々の身体は多くの細菌が調和を保っている一つの生態系と考えれば分かりやすい。人体細胞と細菌が織りなす小宇宙なのだ。
 とくに、腸に棲む細菌群はフローラと呼ばれ、食物を分解したり、栄養を供給してくれたり、免疫系が暴走するのを防いでいる。潔癖症や除菌剤摂取で体内の細菌が少なくなると、免疫系が過剰に機能し、炎症性疾患を増加させることもある。腸内フローラが正常に働いていれば、免疫系も健全なため、悪性腫瘍、心筋梗塞、脳疾患を未然に防いでくれるのだ。
 それだけではない。腸内フローラは脳にも深く関与していて、うつ病や不安をコントロールしていることも理解されるようになっているのだ。自己の細胞ではなく、細菌が心を支配することがあるとは以前は考えられなったことだ。

 科学の研究成果は体内の細菌がうまく働ける環境を作ることが健康長寿につながると言っているのである。善玉菌の乳酸菌を含むヨーグルトを摂取したり、味噌、納豆、魚などの和食を常食とするのは腸内細菌を快い状態に保つとされる。世界一の日本人の長寿は食べ物と腸内フローラの関係の面でも解明されつつある。

 逆に健康に悪いのは何か。ストレス、過度の飲酒、運動不足が3大要因だ。これらを引き起こしている源は、過重な仕事である。残業は身体に悪いのだ。安倍政権の進める働き方改革はさらなる健康長寿にも直結しているのである。
 働き方改革に意義を唱えているのは資本家たちであり、それは株主である私たち自身でもある。もっと労働者を働かせて、儲けたいというのが資本家の心情だ。自分が投資した資金を増加したいがため、自分が過重労働に陥り、健康を害しているという矛盾に陥っている。資本主義もまた人間がコントロールできなくなっているのではないか。
 自然科学の発展は著しいが、社会科学とうまく連携し、壮大なメカニズムを解析してもらいたいと思う。
 健康はお金では買えない。生命科学者が指摘するように善良な体内細菌を大事に育てるための食事と、適度の労働、運動が大切なのだ。
 我々の身体は自分の細胞だけが作り上げているのではない。細菌フローラに感謝しながら、生きていきたい。他力本願なのだ。

(2017年2月11日、寺岡伸章)
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