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イノベーション

怠惰なサムライ

 日本の大学の世界ランキングは発表の度に、低下が続いている。アジアの大学の中でもトップ100に入るのは前年より2校減って、7校になった。このようなランキングが発表されると、国内の大学から評価指標がシンガポールやマレーシアのような英語教育圏に有利になるように偏っているという批判が聞こえてくる。英語でなく母国語の日本語で高等教育を行っているのは自国文化の高さであり、もしろそれを誇りにすべきであるという根強い議論がある。その結果留学生数や外国人教員が少なくなり、ひいてはアングロサクソン系の評価指標では実力よりも低く位置付けられるというのだ。また、仮に教育で負けていても、ノーベル賞学者数で明らかなように、研究レベルではアジアどころか、世界のトップクラスにあると胸を張る。
 しかし、最近、北京大学や清華大学のような非英語圏の大学に抜かれると、今度は中国はお金があるから教育も研究も何でもできるが、日本はお金がないことがネックになっていると言い直す。巧みな負け惜しみばかり並べ立てている。敗北をけっして認めようとしないのが日本人の最大の欠点になっている。

 中国の大学に限らず、シンガポールやマレーシアの大学はもっとも斬新的な発想に基づいて21世紀にあり得べき大学を真剣に模索してきた。奨学金を出して周辺国から優秀な学生を招き寄せたり、世界中の優秀な研究者を掻き集めたり、ネットを介した米国の有名大学の授業受信などの施策を次々と打ち出してきた。また、文理融合のみでなく芸術の知識も含めた総合的な知見を持つ学生の育成、西洋科学のみでなくアジアの思想も併せ持った人材の養成にも取り組んできている。縦割りの学問の弊害をいち早く察知し、果敢にチャレンジしているのである。

 一方の日本の大学は旧態依然とした組織や運営に閉じ籠もり、世界の潮流から大きく取り残されようとしている。学者も学生も発想が内向きになり、未来を見据えたチャレンジを怠っている。そのような不作為の結果が世界の大学ランキングの低下を招いていると気がついていない。あるいは見ようとしていない。ガラパゴス化が甚だしい。

 明治維新は海外の事情に詳しい開明的な野心的な人々が改革を進めた。当時日本は新興国であったのだから、そのようなエネルギーが内部から吹き出してきたのだろう。現在、そのような新しい時代のうねりはアジアの新興国から起こっている。日本の大学は老大国のそれである。先進的なアイデアや独創的な発想がリスクが大きいと見做されて、敬遠されている。誰もリスクを取りたがらないからだ。

 勤勉で素直なサムライはいったいどこに行ってしまったのだろうか。

(2017年3月21日、寺岡伸章)
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リアリティ

 昨秋、モーツアルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』を2度鑑賞し、感動する機会に恵まれた。天才モーツアルトの人間観察の鋭さに改めて驚いたものだった。今年になると、村上春樹の長編小説『騎士団長殺し』が発表され、ベストセラーになった。題名からもしかすると『ドン・ジョバンニ』の始めに登場する騎士団長殺しの場面と関係があるかもしれないという推察は当たり、気持ちが良かった。それにしても、小説『騎士団長殺し』は村上ワールドを十分堪能させてくれたものの、著者の意図が最後まで分からず、消化不良のまま終わってしまった。春樹の小説の登場人物は心に深い傷を負った者ばかりだ。健康な人や健全な発想の持ち主や、ましてや人生の成功者にはけっしてお目にかかれない。登場人物はみんな非常に感傷的だが、素直な気持ちを抱えて静かに生きている。大方は孤独である。孤独な人々しかわかり合えないという小説世界を描いているのかもしれない。そのような鋭敏な表現が心に傷を追っていると考えている(被害妄想も含めて)世界の人々の強い共感を得て、読まれ続けてきたのだろう。今回の小説も様々に解釈され、ビールを飲みながら議論が行われ、スバルのニューフォレスターの販売量が伸びるだろう。ニューフォレスターは準主人公が愛用する車で、しばしばその乗り心地や雰囲気が描写されているので、小説を読んで欲しくなった人も少なくないのではなかろうか。村上春樹の小説には多くのクラシック音楽も引用される。そのたびにその曲が流行するのだから、影響力は大きい。大したものである。『騎士団長殺し』の主人公は画家だった。偶然にも、わたしは今年年初から鉛筆デッサンを始めたため、主人公の心理描写がよく描かれているのが分かった。春樹は小説を書くために、多くの画家にインタビューをしたのではないのか。何を念頭において何を描き出そうとし、どこで悩むのかは画家本人でないとよく分からない。そこはうまく描き出せていると思う。小説『1Q84』ではNHKの放送受信料の集金人が誇張されているもののリアルに書かれていて、面白かった。事前に集金人の実態を精緻に調べないと小説にリアリティを持たせるのは難しい。現実よりもリアリティに富む小説を我々読者は強く求めている。生きているとあるとき、ふと現実感に乏しい毎日であると思えることがある。苦しくも辛くもないが、面白みに欠ける日々だと感じる。リアリティで思い出したのだが、60歳の定年退職後、仕事を辞めたい日本人は1、2%しかいないそうだ。再雇用されたり、再就職して、仕事を続けることは社会との絆を維持することの意味は大きいが、それ以上に仕事に生きる張り合い、つまりリアリティを感じるから続けようとするに違いない。仕事は虚構だと思ってしまえば、もっと実と意義のあるものを求めたくなるだろう。ワーカホリックから見ると、仕事をしないのはブラブラしていて、無駄時間を過ごしているように感じるだろうが、ブラブラと時間を使って自然の移り変わりを感じたり、絵画を描いたり、小説もどきを書いたり、コンサートに出かけたりすることは意味がある。このような行為に仕事よりリアリティを感じる人もいる。仕事を行うには世間のルールがあるため、本人の流儀で行うのは憚られるが、趣味の世界では自己流は大いに歓迎される。それは個性であり、ときにはかけがえのない独創的なものであるからだ。そこには意味があり、リアリティが存在する。故郷の文芸同人誌を読ませてもらっている。上手く描かれている小説が多いのだが、自分が経験した範囲のことが描けても、その枠からはみ出ると描くのが難しいらしい。普通の人々の経験することは限られているため、そのまま書いていては人を楽しませる意外な展開の小説は書けない。物語の進展の範囲が限定的になっているため、面白みに欠ける。ところが、プロの作家は読者の予想を超えて物語を進行させるため、ワクワクしてくる。どういう結末が待っているのだろうかと興味が湧いてくる。現実世界を超えたリアリティを提示されれば、少々荒唐無稽でも読者は白けずに付いてくる。筆力がそれをカバーするからだろう。小説を読むのは楽しいが、書くのは難しい。入試に合格するのは易しいが、独創的な研究を行うのは難しいのと同じだ。人間はワクワクさせられるものを強く求めている。作家も科学者も孤独に耐えながらも、楽しい物語を紡いでいかなければならない。

(2017年3月17日、寺岡伸章)
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ワクワク、ドキドキ

 人間は言語を使うが、それではなぜ言語が存在するようになったのだろうか。それは目に見えないものを共有するしたいという欲求からである。モノが目の前にあれば、言語でとやかく説明する必要はないが、その場にないモノや抽象的な概念(夢、希望、平和、愛等)を表現し、相手に分かってもらうためには言語が必要になる。

 人間は一人ではか弱い存在であるため、集団で行動し、社会を作ったが、家族や社会の構成員と共感し合う能力は他の動物とは群を抜いている。つまり他人からの評価が自己存在の意義を見出してくれる。だから、仲間から無視されるのは非常に辛いのだ。人間は自ら自分の価値を規定できないのである。周囲から認められて初めて生き甲斐を感じられるのである。言葉は共感能力を強化するために発明されたと言える。

 いずれにしても、言葉の発明は科学を生み、文明を進化させた。科学を行う者、つまり科学者は人類がまだ知らない概念を創造するために、自然界の謎の森を一人で歩かないといけない。他人と共通の目標を持って集団行動するのではなく、オリジナリティを追求するため、孤独に耐えないといけないのだ。しかし、それは最終的に人類に貢献することであり、共感できるものを作ろうという行為そのものである。科学者は一人で森の中に入って行くが、目的地に辿り着けば、その存在が知られ人類共通の場になる。

 科学は客観性を装うが、客観的なものそのものはあまり面白くない。面白いのは主観的なものだ。主観的段階のものと言い換えた方がいいかもしれない。科学者が悦びを感じるのは一人でもがき、発見や発明のダイナミズムに我が身を捧げてワクワクしているときであり、それを誰かに説明する段階ではない。人々に理解してもらうには客観的で合理的な説明が必要なのであるが、じつはそれ自体は退屈な作業だ。分かってもらえたとしても、その楽しみは質が異なる。政府は一流の研究者にアウトリーチ活動を義務付けているが、科学者の本質を知らない愚行のようなものだ。納税者への義務だとか叫んでも、そのような活動は有能な科学者の時間を無駄に消費するだけである。科学者の心は政府にも一般国民にもあまり理解されていないのである。

 科学的知識が成熟し緻密化されてくると、科学は貧困化し、カオスや野蛮を求めるようになる。ちょうど写実主義がピカソや印象者の画家を誕生させたようなものだ。科学を面白くするために、既存の知識体系の破壊者が必要になってくる。人間の知識の体系化には自ずと限界があるため、自然に学べと叫ぶ者が出現する。動物の生態や自然の営みには人間の知性は叶わない。それは美しく、人々を魅了して止まない。自然から学ぶというゼロからの出発が必要になってくるのである。
 つまり、文明が進化し、行き詰まっても、その壁は打破できるという希望と夢があるのだ。いや天や宇宙から与えられていると言ってもいいかもしれない。人間は面白いことやワクワク感を感じずにはおられない。それは性による官能よりも根源的で深いものだろう。それは人間存在理由と切り離せるものではない。

 関西風に言えば「おもろい」を求め、まずは「やってみなはれ」という軽い気持ちが最初の一歩である。この一歩が踏み出せれば、目標は半分実現したようなものだ。科学も事業もやれば何でも面白く、世の中は面白いことで溢れている。それを感じる鋭いアンテナを常備しておくことも大切だ。これは他人から教えてもらうものではなく、自ら学ぶものである。人生は自ら探求するしかないのだ。

 人生を楽しむためには、深く考え、柔軟に発想し、気楽に行動することだ。ワクワクさせられる謎とその回答はいつでもどこでも用意されているのだから。

(2017年3月17日、寺岡伸章)
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都市鉱山から造るメダル

 今回は少し硬いお話です。
 都市鉱山とは、地上に蓄積された工業製品を資源とみなして「都市鉱山」と名付け、資源をそこから積極的に取り出す概念です。究極のリサイクルです。特に、金銀銅やレアメタルが注目されていますが、これらの貴金属類は携帯電話、PC、デジタルカメラ、MDプレーヤ、ゲーム機等の工業製品に使用されているため、経済的に回収、仕分け、試練できれば、海外から輸入する必要がないため、メリットは大きいのです。日本における国内再資源化率は、金28%、銀42%、銅17%となっていますが、先進国ではけっして高い数字ではありません。

 2020年の東京オリンピック・パラリンピックのメダルを都市鉱山から造ろうという運動が始まっています。これが全面的に実現できれば、オリンピック史上初の快挙になり、安全保障上や経済面でプラスになるだけでなく、クールな環境都市・東京を世界中にアピールできます。このプロジェクトの最大の課題は、国民まで理解が及び身の回りの使用されていない携帯電話等を市区町村や携帯電話会社に寄託してくれるかに依っています。メダルを造る事業を立ち上げるには、定期的に一定量の都市資源が搬入されてくることが必要です。洗練技術は確立されていますので、それ以降のプロセスは問題ありません。
 メダルプロジェクトが成功すれば、今後とも金属資源のリサイクルを事業化できるようになるでしょう。物質循環を行うのは文明社会の最終的な目標ですから、大きなチャレンジングです。

 海外から金属の鉱石原料を輸入し、それを精錬・加工して製品を作るというビジネスモデルは古くなっています。良質の資源が枯渇に向かい、発掘できなくなっているということもありますが、それ以上に鉱山開発による環境大破壊、労働災害、差別、貧困、暴力・殺人など諸々の悪を退治する必要があります。鉱山開発会社は暴力装置として途上国で横暴を奮っています。スマホ、PC等に支えられた我々の快適な生活は彼らの犠牲の上に成り立っています。まず、この顔を背けたくなる事実を知ることが大切です。

 選手達が人間の限界に挑む躍動感を享受するするだけでなく、彼らの目指すメダルも汚れのないものでありたいです。

(2017年3月14日、寺岡伸章)
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博士課程に進学しないワケ

 周辺国がきな臭くなっているなかで、日本が生き残っていくためには、安全保障でも経済活動においても科学技術力に頼らないといけないのは明白だが、残念ながら国際社会における日本の研究開発力は目に見えて低下している。主な原因は二つだ。
 一つは他国が積極的に研究開発費を増加させているなかで、日本のみがほとんど増加させていないという現実だ。もう一つは優秀な学生が科学者の将来に希望が持てず、博士課程に進学したがらないという状況だ。
 東北大学物理部門の修士課程でトップクラスで卒業する女子学生に話を聴く機会があった。
「博士課程に進学すると生活のために奨学金を受給せざるを得ないが、それは返済しなければならず、博士号取得の時点で5~600万円の借金を背負うことになる。その上さらに、運よくポスドクの資格を得て、大学や研究機関を渡り歩いたとしても、助教の定職に付くことは難しくその保証はない。じじつ、ポスドクをずっと続けている人は多く、当然給与の上昇は見込めない。人生設計の目途が立てられない。過去においては、そのような厳しい環境下でも、好きな研究に人生を賭けるという生き方もあったかもしれないが、そのようなロマンスに惹き付けられる若い人は少なくなってきていると思う。
 さらに、日本の大学は男性中心の閉鎖空間で、パワハラやセクハラの巣窟である。学生や身分の安定していない女性は自己主張したり、拒否できない掟や雰囲気がある。そのような後進的なところで、生きて行くには逞しさや柔軟性が必要であるが、それらの能力が自分に備わっているとはとても思えない。企業に入って、社会のためになる技術開発をした方が面白いのではないかと考えた。
 そんな理由から進学を断念した。迷いはなかった」

 優れた研究はお金と人材に依るところが大きい。体質を変えられない日本の研究機関に明るい将来はないのではなかろうか。有名大学の博士課程の定員割れが10年以上も続いている。大学院学生を大切に処遇しないのだから、そのツケは次世代が背負うことになる。日本人のノーベル賞受賞者はあと数年続くか、その後は稀になるに違いない。

 教育と科技政策を担う文科省の役人が隠れ天下り手法に腐心しているのだから、何をかいわんやである。うまくいくはずがない。

(2017年3月10日、寺岡伸章)
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コーチング

 野球やサッカーの選手が上手くなるために、引退したベテランが技術を伝達するのをコーチングと呼ぶが、これはスポーツに限ったことではない。役に立たないコーチングもある。それは友人によるゴルフのコーチングかもしれない。言われるままにやろうものなら、スイングがバラバラにされて、ポイと捨てられるのが落ちだ。彼らにはこれぽっちも加害者意識がないのはさらに悪いのだが。

 仕事においては、効率的・効果的にに行うには、はやりコツみたいなものが存在する。業務を素早く終えて、早く帰りたいし、高いパフォーマンスを上げて出世したいと思うのは人情だろう。でも、その業務の背景や必要性や意義をきちんと理解していないと、どのように、どこまで課題を解決していいか分からない。ポイントを抑えていないと、無駄な作業をしたり、間違った判断をしてしまう恐れがある。だから、仕事のやり方に精通しているエキスパートに教えてもらえると、本当に有り難い。このようなノウハウにはお金を支払っても高くはなかろう。将来の自分への投資である。このような仕事上のコーチングは日本ではあまり普及していない。先輩や上司から指示されながら、仕事を覚えていくという風土が日本の会社にあるためと思われるが、先輩達がつねに正しいとは限らない。もっと合理的、科学的アプローチがある可能性は低くない。米国ではエグゼクティブ候補者を対象にしたコーチングが普及していると聞いたことがある。

 健康長寿は高齢者だけでなく若い人の高い関心事と言われるようになった。日本人の平均寿命は83歳と世界一を誇っているが、海外の大学の調査によると、2030年には韓国が世界一になり、日本は今よりは伸びるものの世界11位まで落ちるとの予想が最近発表された。理由はよく分からないが、日本人の平均寿命の伸びは勢いが鈍ってきているらしい。海外に比べて規制が緩い農薬や食品添加物の大量使用がじわりと効いてきているのかもしれない。ミツバチの減少で受粉が少なくなっているのは特定の農薬のためだとされるが、政府の腰は重い。

 話はコーチングに戻るが、健康増進コーチングがあってもいいと思うのはわたしだけではなかろう。体質に合った栄養と食事の摂り方、運動の量と質のメニューの提案、病気や医者との付き合い方、精神的生き甲斐探し、死ぬまでの人生設計、資産の運用はどれも健康に大きく影響している。これらを総合的に判断するには相当な知識と経験が必要であるが、不可能というものでもない。一人でコーチングできないのであれば、2~3人のチームを作ってその人に対してコーチングすればよかろう。会社組織にすれば、儲かるのではなかろうか。需要は確実にあると思う。かつては、このようなことは親がアドバイスしてくれたものだが、核家族化し関係が希薄になったこともあるが、最新の科学的知見を踏まえたコーチングとなると、専門家に依存しなければならない。金持ちはいつも得をするように世の中は作られている。

 もし健康コーチングの費用支出を防ぎたいのであれば、質の良い友人を持ち、お互いに経験や知識を交換し合い、自分に合ったものを積極的に取り入れていくことだ。飲み食いの費用だけで、ただの情報が得られるのが嬉しい。ただし、コーチングは権威があるのでその指示に従うが、友人からの忠告に素直になれるかは個人しだいということになる。自分に甘い人には馬耳東風だろう。豚に真珠かな。

 コーチングは突き詰めていくと、人生の何に価値があるということを自分で決められず、指示を待つ人が出かねない。ストレスを溜め、自分が見いだせないノウハウ重視の人には救いの手かもしれない。自分に合わないことに挑戦し続けて、失敗し、傷つくよりも楽しい人生を送れそうだ。そこまで極端でなくても、数百パターンの生き方の一覧表から自分に合った職業や趣味をコーチに選択してもらうというやり方もあるだろう。
 遺伝子分析や知能指数や運動能力を踏まえて科学的に分析すれば、高い確率で「正解」に当たるはずだ。そのようなコーチングは急速に発展している人工知能がもっとも得意とするところかもしれない。

 他人のことは客観的に判断できても、自分のことは分かりにくい。年齢を重ね智恵がつき自分を正しく理解できるころにはすでに手遅れの場合が大半だ。
 たかがコーチング、されどコーチングなのかもしれない。

(2017年3月3日、寺岡伸章)
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