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イノベーション

音楽、美術、体育

 中学校の教科のうち、国数英理社は主要5科目と言われ、音美体は付属的な能力科目と見なされてきた。主要科目ができる生徒が重宝され、受験戦争を勝ち抜き、社会のリーダーとして活躍する機会が与えられるのである。人生の成功を掴むうえで、これらの科目で高得点を得ないといけないのだと信じられてきている。実際に、高度知識社会においては、主要科目の高度な知識は不可欠なのだ。言語を自由に操る能力に加えて、論理的な発想ができないと、複雑に入り組んだ世界を分析、理解し、それを人々に伝え、説得することが難しい。

 発想を変えよう。主要科目の重要性は舶来主義に基づいているように思える。欧米に追いつくために、外来の知識を貪欲に吸収する必要があり、それの基礎学力として主要科目は重要だった。そう考えた方が主要科目重視の理由が分かりやすい。要は、日本文化を軽視し、先進国とされる欧米に追従するだけの国家戦略に沿った行為だったのではなかろうか。

 この戦略は富国強兵な国や物質的に豊かな国を作る上で、うまく機能したと考えられるが、このような浅はかな価値観に基づいて教育の理念が構築されているのだから、それらを優秀な成績で習得したエリートは日本人として優れた素養を備えているとは必ずしも言えないだろう。

 日本人として固有の文化を身に付けていない人物は底が浅くなる。早い話が、国の成り立ちに関わる神話を教え、日本書紀などの古典を読ませ、宗教的な修行を体験させることが必要と思う。政教分離を徹底するのが教育の基本であるという間違った発想の下で、自国の歴史や文化が軽視されている。歴史や文化は自国の独特な宗教と切り離すことは不可能である。政教分離という名の下で、自国を愛せない人々を作り出している。知識だけを詰め込む主要5科目重視には大きな疑問がある。

 主要科目の従属的な位置づけである、音楽、美術、体育の方が人間の本性に忠実であるように思う。小さい子どもを見れば分かるように、みんな歌って、絵を描いて、外で遊びまわることが大好きである。人間の本質に関わることだからだ。感性や人間性を磨くうえで、これらの能力や科目をもっと重視すべきと思う。創造性は感性と強く結びついていて、知識の量とは関係がない。創造性豊かな人間を作る上で、感性教育は非常に大切である。創造的なものは美しく、豊かな音色を持っている。身体が強く求めないものは魅力的でも、セクシーでもない。

 主要科目が得意でなく、これらの付属的な科目ができる生徒は先生から大切に扱われない。劣等感を持ったまま生きている生徒は少なくない。でも、このような能力を持つ生徒こそ大切にすべきと思う。
 現代社会は行き詰っている。人間を不安や不満から解放するためにも、人間に隠された能力を開拓することが大切である。お金や地位にとらわれない価値観を生み出そう。人間の能力は無限である。感性や身体性を駆使して、創造性のある人間を作り出していこう。

(2017年8月29日、寺岡伸章)
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民主主義と人工知能

 民主主義は歴史的教訓から見て、もっとも人間的な政治制度だと考えられている。
 バカ殿のような決断しない政治や独裁者の圧政に苦しんだり、搾取されたりする悪政は人間支配の悪だと思われている。一般庶民の願いが叶えられるボトムアップ型の民主主義こそ理想に近いと信じられている。
 しかし、味方によっては民主主義こそ怖いシステムはない。独裁者ヒットラーを生んだのは民主主義そのものである。民衆は移ろいやすい。理性を失い熱くなると国家を破滅へと導く恐れを孕んでいる。

 人間に我欲があるように民衆は自己中心的だ。税金は払いたいくないと常日頃思っていて、年金は多い方がいいと考える。近くに良い病院や保育園があれば良いと要望するが、それらを成り立たせる財政的問題を考慮することはない。それらは政治家や行政マンの仕事だと割り切り、深く考えようとしない。民衆の要望は多分に他力本願的ある。

 人間が矛盾に満ちているように政治も魔物である。北海道の夕張市は財政破綻し、市民生活はどん底に落ちたと信じられていたが、内実そのような簡単なことではないらしい。市民病院のベッド数は10分の1に減少し、公園等の公的空間の環境整備はできなくなった。これらは市民の要望であったが、それらができなくなり、市民は不幸になったのだろうか。そうでもないのが面白いところだ。

 病院のベッド数が激減したため、健康の確保は市政や医者に頼るものではなくなり、自分たち自らが獲得していくべきものという意識が芽生え、運動を増やしたり、体を動かしたりすることが増えた。その結果健康になる者が増え、医療費が少なくて済むようになった。市政のサービスが落ちると、市民の自立心が生まれるのだ。
 環境整備費が削減されると、市民はボランティアで環境の景観を守ろうと活動し始めた。ボランティア活動は市民の連帯感を醸成し、体を動かすことで健康体を確保しやすくなった。

 政治はアイロニーである。民衆はわがままなため、政治に多くを望むが、それらが実現されないと分かると、自らが発起して動き出すのである。なければないなりに、どうにかなるのだ。ここに民主主義の限界がある。民主主義という制度は自己を正当化するために、非民主主義制度の悪い事例を引っ張り出すのだが、独裁者であっても善政を行った名君は少なくない。選挙で選ばれようが、親から引き継がれようが、為政者の能力に依存するのだ。民衆の要望を何でも叶えてあげるような政治は必ずしも善い政治とは限らない。ここにマニュフェスト型選挙の限界も見えてくる。

 政治家は人気取りしないと選挙に選ばれないから仕方がないが、いっそのこと、政治家をすべて人工知能で置き換えてみたらどうだろうか。人工知能は人間の情念や欲望を考慮することなく、合理的な判断を下すことができる。病院のベッド数を増やすと、長期的にどのような事態を招くかを膨大なデータを分析して予測することができる。天才棋士の数倍先を読むことができるように、人工知能は政策の社会へとインパクトを的確に判断することができる。財政規律を守れと人工知能に命じれば、その範囲で市民サービスの優先度を決断してくれる。役人はそれに従って働くだけでいい。政治家がいなくなれば、納税額も随分少なくて済むようになろう。

 人工知能は極端な排他主義やグローバリズムに走ることはなかろう。民衆を甘やかすこともなく、かつ搾取を厳しくすることもなかろう。人間の行動原理を読み、自主性を引き出し、市民が生き甲斐を持てる社会を実現してくれるはずである。政治家は民衆の欲望の権化のようなものではなかろうか。
 高齢者の暴走運転は人工知能による自動運転が解決してくれるように、政治も人工知能によって合理的に行われるような日がやってくるかもしれない。少なくとも技術的にはそれらは可能になりつつある。

 そのような事態に直面したら、人間はどのように判断するのであろうか。人工知能に政治を任せるのか、それとも従来通り自らの化身として政治家を選び、欲望の実現を代行させようとするのか。
 人間は小説、映画、ドラマが好きなように、物語から離れられない。劇場政治であろうが、アベノミクスであろうが、政治もまた一種の物語である。物語を放棄してまで、政治を人工知能に委託してしまうのかどうか。その答えは数十年以内に見えてくるに違いない。人間の正体が暴かれる日は近い。

(2017年8月21日、寺岡伸章)
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「今忙しい?」

 SNSは怖いと友人から聞かされていたが、それが自分の近くで起こると、恐怖感が現実のものとなる。
 先週FBの友人から「今忙しい?」というメールが来たのだが、何の要件だろうかと考えを巡らせた。先輩だったため、仕事でも言いつけられるのだろうかと心配になった。退職したばかりなのに、職場に引き戻されたり、タダ働きさせられたりしては叶わないと頭を抱えていた。もし、大事なことであれば、再び連絡が入ってくるはずなので、放置し少し様子を見ることにした。
 数日たっても音沙汰がないので、やれやれ解放されたようだと胸を撫でおろしていた。
 すると、別の先輩から同じメッセージが届いた。「今忙しい?」
 文面がまったく同じである。これは変だぞ。何かあるなと思い、今度は「何の用事でしょうか」と短めのメッセージを書いた。すると、「なりすまし。削除して下さい!」との返事が来た。意味が分からない。わたしに代わって誰かがなりすましをして、わたしの友人に迷惑をかけているのだろうか。もしそれが本当であれば、すぐに対応をしなければならない。でも、どうやってやるのか分からない。

 そこで、心配になり専門家に問い合わせをしたところ、「ハッカーによる悪戯かもしれないので、できれば電話でその相手と連絡を取り、何が起きているのか、被害は何なのかなどを詳しく聴き、実害が生じるような場合には警察に届けることも検討した方がいい」と言われた。SNS版の新手のオレオレ詐欺かもしれない。そう考えると、先輩からの「今忙しい?」というメール自体が誰かのなりすましなのかもしれないと思い至った。被害者はわたしではなく、先輩のかもしれない。

 連絡を取り合って分かったことは、やはり誰かが先輩になりすまして、メールを複数の友人に送っていることが判明した。「今忙しい?」の次には、「急ぎの電話をするので携帯電話を教えて欲しい、さらにはパスワードを教えて欲しい」とエスカレートしていくとのこと。こうなったら、へたをすると全財産を巻き上げられてしまうリスクもある。注意しなければならない。実害が発生すれば、そのうち、テレビや新聞でも取り上げられるようになるだろう。

 なりすましの手口はいろいろあるようだ。パスワードを知られてしまい(推測ソフトも発展している)、誰かがどこかでアクセスしている可能性もある。こうなったら、パスワードを即刻変更しなければならないが、ハッカーに先を越されてしまうと、それこそサイバー空間で自分を乗っ取られてしまった形になる。これは非常に怖いことだ。誰かになりすまし、その人の信用で次々と友人を騙し続けることになるからだ。あるいは、別のアカウントからわたしのアカウントに侵入し、なりすましをするという手法もあるらしい。これは知能犯の世界である。いずれにしても、わたしはFBのパスワードは長期間変更していなかったので、この機会を利用して変更した。水際作戦がはやり効果がある。

 話は飛ぶが、1か月ほど前、FBの友人から「〇〇氏(具体的氏名)はハッカーであり、あなたのアカウントに接続して、なりすまして、友情申請を行っている。このままでは、多くの人々に迷惑がかかるので、あなたの全友人に対して、その人からの友情申請を受けつかないようメールして下さい」という趣旨のメールを受け取った。丁寧に、その操作方法まで記載されていた。これも何だか変なメールだと思い、さっそくその本人と連絡を取ったところ、誰かの悪戯メールだと判明した。このようなメールを全世界に広めるために、わたしを利用しようとしているのだ。〇〇氏の名誉を傷つけようと企んでいるのだろうかとも思った。

 慌てて対応をしようとすると、却って相手の術中に嵌ってしまう。手口はオレオレ詐欺や不幸の手紙に酷似している。冷静に対応することが肝心だ。もっとも効果的な手法はSNSなんかやめてしまい、リアルな肌感覚がある交際に絞ることだろう。自分の活躍する場や世界を広げようとすると、そこに知能犯が忍び込んでくる。感覚を鋭くし、頭でっかちにならないようにすべきだろう。

(2017年8月9日、寺岡伸章)
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実存、そして生きると言うことの意味

 小説を描くのは楽しいが、登場人物を実際にいる者のように描くのは容易ではない。そのため、素人の書く小説は実際に著者が経験したことを元になっている場合が多くなる。経験談は自分の心が感じたことを書けばいいのだから、リアリティが出てくる。それを文章に忠実に書き起こしさえすれば、読者は追体験することになるため、現実に起こっていることのように思え、共感を覚えることが可能となる。小説の面白さを感じることができるのだ。

 しかし、経験していないことを小説として書こうとした瞬間に大きな壁が聳え立つ。白い原稿用紙を前にしていったい何を書けばいいのだろうか、どのようなプロットで物語を進めればいいのだろうかと思い惑う。もちろんプロの作家は経験していないことでも書けてしまう。これが素人とプロの違いなのだが、それはどこから来るのだろうか。その差はいったい何なのだろうか。

 プロ作家は幼少の頃から大方本の虫である。膨大な読書を経験しているため、人間の性格や筋書きは脳に蓄積されていて、それを常に思い出しては新しい物語の可能性を無意識のうちに試行錯誤している。
 人間の生き方や価値観が無数にあるように、物語の可能性が尽きることはない。それに加えて、作家は文章の練達を何年も繰り返しているため、想うことを描き出す筆力に優れている。特定の人間を本物のようにリアルに書くには描写力が必要だ。その人物のセリフ、身につけているもの、態度、さらには情景描写を詳細にかつ的確に書くことで存在が浮き出て来る。平板でステレオタイプの人にしか見えなければ、それは生きている人物を描いているとは言えない。
 では、どのように書けばリアルに感じさせられるかを教えられるかというと、そんなに簡単ではない。そのため、素人作家や自称作家は身近な人物をモデルとして書こうとする傾向になってしまう。

 人間のリアリティや実存とは生きている実像が感じられるかである。ロボットのような人に読者は共感したり、感情移入したりしない。また、当然のことながら、その人物がある分野の優れた能力を持っていたり、成功者だったりする必要はない。それは俗世間の価値観であり、それが読者の共感を惹き付けるものではない。人間の本来の心持ちや態度が自然に描かれている必要があるのだ。ぐうたらな登場人物に存在感や人間の魅力を感じることだって大いにあり得る。

 以上は小説の世界の話だが、実世界でも似たようなことは起こっている。生き甲斐、生きている実感や悦び、自分がここに存在するというリアリティを確かに感じられる人は幸せである。それは過去に為した事柄の重さとはあまり関係がない。なぜならば、人生とは過去の知識や経験を基にして形成された自分が世界(モノ、人、事で形成される自分以外のすべて)との関わりにおいて、将来の何かに向けて、今何を選択し為すかということの積み重ねである。過去の実績が重いほど、未来もまた重いものを志向する。選択は死ぬまで続くが、それらは何かに向けられているものの、何かが実現できるかどうかは本人の達成感に違いはあるがそれは重要ではない。むしろ一瞬一瞬に自己の存在を十分認識し、実感できているかが重要である。それは何かによって償われるものではなく、それ自体が意義のあることなのだ。

 努力をせよと先生や親や上司は熱心に説く。その結果はうまくいく場合もあるが、そうでない場合もある。失敗したとき、それまでのプロセスは次に成功するための反省材料になるが、だからと言ってそれが否定されるべきものではない。そのプロセス自体に価値があるのだ。それを素直に認めることが大事なのだが、現代はあまりにも結果重視の価値観に偏重している。結果がすべてだという短絡思考に陥っている。だから生きていくのが息苦しいのだ。将来が不安に感じられるのだ。

 大学の研究現場でもその成果である論文の善し悪しばかり議論の対象になり、その科学者がプロセスにおいて何を考え、トライし、何を感じたのかという平凡な日常性がまったく考慮されない。人生の価値はその瞬間にこそ意味があると同様に、科学も科学者の日常性に意義があるべきと考える。科学者は科学そのものや国家の奴隷ではなく、生身の人間であるからだ。

 これらは大学の問題であるばかりでなく、会社や役所でも似たような現象が起こっている。結果ばかりが大手を振り、脚光を浴び、途中の過程が極度に軽視されている。ここにメスを入れない限り、現代人はいつになっても救われることはない。
 人々は厳しい仕事環境にあるばかりでなく、結果主義という非人間的な評価軸でがんじがらめにされている。現代の人間は解放されるのを待っているのだ。

(2017年3月27日、寺岡伸章)
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東北大学卒業式

 3月24日、東北大学の学位記授与式(いわゆる卒業式)に列席してきた。学部生、修士生、博士生など合わせて4612名が学位を授与された。女性は1138名で25%、外国人は270名で6%だった。世界を牽引する東北大学としては留学生率6%という数字はけっして高いとは言えない。今後の飛躍を期待したい。

 里見総長の学位授与者に送る言葉いわゆる告辞の内容のポイントは二つだった。
 まず、「よりよい社会とは何か」を再考してもらいたいということだった。6年前の東日本大震災によって学術のあり方も厳しく問われた。震災復興にどれだけ貢献できるのかその存在意義が追究された。人間の福祉に貢献するはずの科学技術の逆襲も起こった。これは東電福島原発事故のことを指摘しているが、原発も原子力という言葉も使われなかった。その理由は分からないが、事件が風化するのを心配する。
 いずれにしても現代社会の発展のエンジンである科学技術の負の側面が顕在化したのである。さらには、遺伝子解析や生殖医療(この言葉も使われなかった)により生命倫理のあり方が問われるようになっている。科学技術の発展により状況が変わり、何だ正しいのか、どうあるべきであるのか、人間は岐路に立たされている。そのために、原点に戻り、よりよい社会とはいったい何なのかを考え直さなければならなくなってきていると言うのだ。卒業生の皆さんはそのことを常に考えて本学で学んだ専門性を活かして社会に貢献してもらいたい。

 総長の二番目の主張は、「他者を感じる力」を身につけてもらいたいというものだった。世界を見渡すと、文明の衝突や難民の移動が起こっているがそれを排斥しようという反動も起こっている。多様性を認め受容するという態度も失われているように思われる。地球環境問題の解決に当たっても自分の利益を優先するのではなく、人類全体の利益や他者の気持ちを感じ取る力が必要である。自分が生きて行くにも厳しい状況がやってくるかもしれないが、どうか他者の気持ちを忖度することを忘れないで欲しい。

 この二つの点が里見総長の言いたかったことではないかと思う。
 最後に、留学生に向けて英語でのスピーチも追加された。東北大学は一層国際化を目指すというメッセージとして英語のスピーチが行われたのであろう。

 学位記授与式終了後、優秀な学生・大学院生、クラブ活動の優秀学生、研究で優れた業績を挙げた教員、教育で業績を挙げた教員、貢献した技術支援者などを対象に授賞式が行われた。東北大学は勉学だけでなく、クラブ活動で頑張った学生や、教育や研究支援で優れた業績を挙げた人々にも脚光を浴びせているのは素晴らしい伝統と思う。
 東北大学は「研究第一」を標榜しつつも、大学に携わるすべての人々に目配せをしている証拠である。静かで厳かな雰囲気の印象に残る卒業式だった。
 ただ、式典の前にワーグナーの奏楽があるものの、国旗掲揚や国歌斉唱が行われないのは議論のあるところと思う。大学は国家権力から一定の距離を保つのはその役割として当然としても、国民統合の象徴としての国歌が歌われないのは寂しいような気がする。

(2017年3月27日、寺岡伸章)
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愚直なノーベル賞学者

 ノーベル賞授賞は何を基準にして決められているのだろうか。ノーベル賞授賞は被引用数などの定量的指標ではなく科学業績で決められていると信じられているが、それは事実でない。建前は科学業績かもしれないが、本当は業績ではなく、それを含めた「科学者の人間そのもの」を評価しているのだ。最終段階では、客観性でなく選考委員会の「主観」で決められるのだ。そうしない限り、年間わずか数件の受賞を決められない。しかし、主観で決めたと本音を言うわけにもいかないため、選考の論拠となった代表的論文や科学歴史上の貢献度などを並び立てている。実世間はまどろっこしい。

 人間の主観こそ本質を見抜く力だというのだ。わたしはこの言説には痺れてしまいそうだが、大いに参考にすべきことだろう。科学は客観性が命のように言われるが、究極の場においては、主観は客観より重要である。

 山中伸弥教授は細胞の発見で2012年ノーベル賞生理学・医学賞受賞の栄誉に輝いた。教授は研究に着手した当時、流行の生殖細胞から抽出したES細胞を使った研究ではなく、体細胞からiPS細胞を得るという極めて独創的で挑戦的な研究を行おうとしていた。まったく無名に近かった山中伸弥奈良先端科学技術大学准教授(当時)はJSTのCRESTという競争的研究費に応募すると、選考委員会のヘッドを務めていた岸本忠三元大阪大学学長はiPS細胞の実現は困難だろうが、元気で熱意のあるプレゼンテーションが印象に残り、何か面白い成果が得られるかも知れないと直観し、山中准教授の提案を採択した。世界一流の研究者でもある岸本教授の「遊び心」が奏功したのだった。それにしても、岸本教授もできないと思っていたことを山中教授はやってのけたのだから、偉いと断言できる。予想外のことができるのところに科学の醍醐味がある。

 2016年ノーベル賞生理学・医学賞を単独で受賞した大隅良典東工大栄誉教授が30年ほど前に研究に着手したのは、当時流行していたタンパク質の合成メカニズムの研究ではなく、不要なタンパク質を分解するメカニズム解明の研究だった。いわば細胞内の「ゴム処理」の仕組みである、オートファジー(自食作用)の研究だった。世界中の誰も手がけていない研究はライバルもいなく、伸び伸びと研究を進めることができたという。
 時代は巡り、オートファジー研究で成果が生まれてくるにつれて、大隅教授の研究分野に注目が注がれるようになる。最終的に、大隅教授はオートファジーのメカニズムを解明し、その重要な役割に世界は驚くことになるが、教授は研究を始めるに当たりその重要性を直観できたというのだから凄い。先見性の賜である。ここに科学の真の面白さがある。

 113番目の元素は発見者の母国日本の名前から「ニホニウム」と名付けられた。元素の命名は日本だけでなくアジアで最初の快挙である。この元素の発見者は元理化学研究所の副主任研究員(当時)の森田浩介氏(現九州大学教授)であるが、彼はこの困難な研究に挑戦していたとき成果が出ず、10年間まともな論文を1本も書けなかったと言われている。現在のような定量的な評価が蔓延っていたら、森田氏は成果の出やすいテーマに変更したか、あるいは研究所を追われていたかもしれない。定量的評価は独創的研究の大きな阻害要因になる恐れが大きい。

 2014年ノーベル賞物理学賞は青色発光ダイオード(LED)を発明した日本人3名に贈られた。その研究成果の要は安定した単結晶を作成することであり、当時世界中のほとんどの研究者は作成しやすかったZnSeの単結晶化に注目して、一番乗りを目指して激しい競争を繰り広げていた。しかし、受賞者の一人となった赤﨑勇名古屋大学教授(当時)はGaNの方が硬くて安定性が高いとして単結晶化に挑んでいた。追従する者はいない。この分野の世界的権威がGaNの単結晶化は不可能であるとだめ押しし、さらにGaNの結晶は作成不可能であるという理論も流布していたからだ。しかし、赤﨑教授はそのような逆境であっても、GaNの単結晶化は可能であると直観し、研究を継続したのが奏功したのだった。これはノーベル賞への道の公式な経緯である。

 しかし、世の中はそんなに単純ではない。当時の赤﨑教授も流行には逆らえず、作成不能な理論が出ているのだから、GaNの研究を本気で行う気はなかった。当時のJRDS(現JST)は他の研究機関で行っていないGaNの研究に挑戦するのであれば、研究費を提供すると持ちかけ、赤﨑教授もやむなく遊び心で引き受けたのだった。さらに、GaNの単結晶化は研究室のメインのテーマでなかったため、赤崎教授がそれを行わせたのは当時エリート大学院生とは言えない天野浩氏だった。主流の優秀な学生には成果が出やすい研究を担当させたのだ。ところが愚直で研究熱心な天野氏はGaNの単結晶化をやってのけた。赤崎教授にとっても予想外の出来事だった。エリートから歴史を変える研究成果が生まれるとは限らないのだ。
 もっとも優秀な理工系の頭脳を持つ学生が集結していると言われる東大医学部と京大医学部の出身者からノーベル賞学者が生まれていないのは偶然ではない。

 科学の女神は移ろいやすい。幸運がもたらされる科学者を言い当てることは人間にはできない。人間の目から見ると偶然でしかない。科学のもっとも面白いところである。

(2017年3月21日、寺岡伸章)
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