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環境・生命文明

庭木の剪定

 母が亡くなって数年間、実家は空き家であったため、70坪程度の庭の樹木は茫々と茂っている。野性味があって逞しいとも言えるが、なんだか品がないようにも見えてしまう。やはり、少しでも人間の手をかけて住人の品格に相当する庭木にはしたいものである。
 庭師に依頼するということも考えたが、無収入の身でもあり、時間もあることからここは新たに経験をしてみることにした。やってみると意外に面白いかもしれない。

 さっそく剪定ハサミとノコギリを新調し、勝手に天に向かって伸びていた庭木の手入れをすることにした。脚立は小屋に収納されていた古いものを使用した。慣れない作業で落ちてしまうと、大けがをするので、無理をして手を伸ばさないように注意した。高いところは散髪されていない。
 初日は30分、翌日は1時間と増やしていったが、さしあたり作業を終えるのに5日間もかかってしまった。でも、面白かった。来年いた今秋もやってみようと思う。大げさに言えば、芸術作品を作っているようなもので、単純に枝葉が短くなったというのではなく、各々の木が散髪をしてスッキリした紳士淑女になったのではないかとも思えないこともない。わたしの腕は超初心者なのだから、刈り損ないが多いのだが、それでも超自然な頭髪よりもましなような気がする。

 ノコギリも剪定ハサミも新しいせいか、切れ味は鋭い。容易に刈れるので、面白くなり、つい刈り過ぎはしないかと気になったが、プロの庭師の仕事を思い起こしてみると、徹底して刈り込んでいたように思える。生前の母は刈りすぎでみっともないと愚痴をこぼしていたのを思い出す。そんなことを思い出しながら、ノコギリとハサミはぐいぐいと仕事をしていく。予想以上に刈り込みのスピードが速い。なんだか子どもが彫刻刀を与えられて、木版を熱心に彫っているような気分になった。
 枝葉が削ぎ落されたので、視野も開けてきた。木々が空間を争うように占拠していたが、勢力範囲が決められて落ち着きを取り戻したようだ。おそらく自己満足だろうが、庭も生き返ったように感じられる。蝶にも気に入られたのか、どこからか数匹が飛んできて、庭で羽を休めている。疲れもあまり感じずに楽しい初体験だった。

 剪定作業の3日目が過ぎたころ、親戚の伯母さんが急いでやってきて、「家屋の南側に植えられた樹木は切るな」とわたしに注意した。家屋や庭木に手を入れるべき季節は決められているため、それに背くと、神々の怒りを買うというのだ。5月は北側と東側の庭木に手を入れ、南側は9月に回せと真顔で忠告された。祟りは恐ろしいとまで言われた。親父が56歳の時急死したのは、家の改築が終わってからすぐだった。やるべき時期を間違えたために、悪い結果を招いたのだと諭された。その因果関係を科学的に探求することはできないが、無理に実行するよりも、ここは話を受け入れた方がよいと思った。南側の樹木はほとんど終わっていたが、残りの作業は9月以降に回すことにした。土地の神様を鎮めるため、塩を庭に撒いて清めた。
 わたしの剪定作業に気が付いた、隣の畑で農作業をしていた農家の方が獲れたばかりの玉ねぎをくれた。急がずにぼちぼちやって下さいと言われた。その言葉の意味は身に沁みてよく分かる。何事にもリズムがあるのだ。必要以上に急いだりすると、怪我や病気など不測の事態を招くことになりやすい。大事なことは急ぐべからず。自然のリズムに合わせて動けばいいのだ。

 こうやって、庭の剪定作業は無事に終わった。仕事や義務としてではなく、庭をいじりつつ自然と一体になろうという試みはスタートしたと思う。田舎生活の魅力は自然や神々や人々との共存である。新しい生活はうまくいっている。今後の展開が楽しみである。

(2017年4月25日、寺岡伸章)
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人生は素晴らしい

 文部科学省で定年退職の辞令をいただくとともに、永年勤務者表彰式に出席し、今帰宅した。再就職問題で組織が揺れ動くなかでの誠に残念なタイミングの退職だが、人生後半は故郷の八代市に帰省して生きていきたい。今までお世話になった方々に心からお礼を申し上げるとともに、今後ともご支援とご鞭撻をいただきたくお願い申し上げます。それにしても式典での挨拶の終盤で、事務次官は涙声だった。醜聞のために退職者の再就職の機会を奪ったという申し訳ない気持ちと、組織が法令を守れず腐敗・堕落したという無念さから来ていると思う。

 でも、来週から背広と満員電車から解放されるのは素直に嬉しい。九州に戻れば、仕事中心の生活からスポーツ、芸術、読書、語学学習、ボランティア、旅行などの活動へと激変する。失職し平凡なおじさんに戻ることになる。真の人間力が試されるようになろう。社会システムの一部からごく自然の状態に戻るのだ。時代の最先端はシンプルライフであり、スローライフを享受することだろう。1日に一つ良いことや気づきがあれば十分だ。
 でも、精神は崇高のままでありたい。地方からグローバル金融資本主義と戦いたい。世界分断の諸悪の根源であるからだ。地方から森里川海の連環を再構築したい。人間存在の基盤であるからだ。地方から文化や伝統を大切に保存し復活させたい。人間の尊厳の基礎であるからだ。
 2週間後の土日は、福岡県糸島市で開催される110キロウォーキング大会に出場するが、九州の大地を15万歩踏みしめて、大地の神々に帰省の挨拶をしたい。神々は歓迎してくれるだろうか。完歩の後押しもお願いしたいものだ。

 スペイン巡礼徒歩の旅に備えてスペイン語を勉強しているが、こんな文章がある。Pan con jamon y vino, eres todos.意味はパンとハムとワインがすべてだ。人生にはこれらのものがあれば十分である。仕事も人間関係もお金も煩わしいことはみんな忘れよう。そんなものがなくても生きていける。モノや栄誉を所有したり抱え込むのではなく、シンプルな生活に戻ろう。豊かな自然と神々と文化伝統に囲まれて、生きている実感を感じながらゆっくりと生きていきたいものだ。
 都会には何でもあるが、大事なものは何もない。今後ともお付き合いのほどを宜しくお願い申し上げます。
 La vida es maravillosa. 人生は素晴らしい。

(2017年3月31日、寺岡伸章)
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人生は気づきの積み重ね

 文科省の定年退職を前にしてわたしの心は清々しい。役所は天下り問題で存亡の危機に瀕し揺れていて、定年退職者は再就職できず「浪人」という中途半端な状態に置かれていて可哀想だが、「俗世間」で生きることを諦めた者としては気は楽だ。これからの人生は余計なことはせず、シンプルに生きたいと思っている。過去の栄誉も失敗もしがらみも要らない。60歳にして生まれ変わるのだから。

 村上春樹の小説『1Q84』の世界では、空中に2つの月が浮かんでいるが、主人公以外には誰もその存在に気が付かないという場面がある。みんな忙しくて下を向いて歩いていて、空を見上げようとしないからだ。月が2つもある世界は奇妙だが、その存在を認知できないのも変だ。でも、妙なリアリティがある。

 わたしはウォーキングが趣味の一つに持つが、真っ暗な夜明け前に着替えて外を散歩することがある。散歩しながら体が温まってくると、幸せな気分になる。周囲は次第に明るくなり、山の稜線も確認できるようになる。それからしばらく歩いていると、太陽が地上に顔を出す。地球創造の瞬間だ。地球は毎朝新たに生まれ変わっていることに気が付く。なぜこんな単純なことに今まで気が付かなったのだろうか。いろいろ本を読んだり、議論したりしてきたものだが、地球誕生のことは認知することはなかった。まさに認知症に罹っていたようなものだ。自分はバカだったと知らされる。

 日の出はじつに有り難い。天の恵みであり、生命の源だ。太陽によって生物は生かされているのがよく分かる。自然と両手を合わせてしまう。感謝しています、今後ともよろしくお願いしますと心の底から祈る。日本人は戦前、日の出を拝んでいたが、今では誰も拝まなくなった。その存在さえ人々は忘れてしまったかのように見える。ちょうど、2つの月が天空に浮かんでいるのに気が付かないのと似ている。人は見ようとしないものは目に映らない。もちろん心にも投影されないのだ。

 世の中は神秘と創造性に溢れている。神は美しい自然を我々に遺してくれている。それを楽しまない手はない。過去の芸術家や科学者は絵画、音楽、建築、小説、科学などを後世の我々に遺してくれている。文明のエッセンスが凝縮している人類の最高の財産である。これを享受しない手はない。そこには「人生は素晴らしい」という大切なメッセージが込められているからだ。

 ある程度年齢を重ねて来たら、肩の上の荷物を降ろしてシンプルに生きよう。今まで気が付かなかったことを大切にしよう。おてんとうさまに向かって手を合わせよう。みんなに感謝しよう。鎮守の森に出かけて神仏に向かって手を合わせよう。それをやるだけでも今まで知らなかった世界が見えてくる。唯物論や合理主義の立場で気が付かなかったじつに大切なもの、それは普遍的な言葉で説明できないが、それが分かるはずだ。

 早寝早起きはバイタリティーの源泉なのだから、即実行しようではないか。

(2017年3月28日、寺岡伸章)
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実存、そして生きると言うことの意味

 小説を描くのは楽しいが、登場人物を実際にいる者のように描くのは容易ではない。そのため、素人の書く小説は実際に著者が経験したことを元になっている場合が多くなる。経験談は自分の心が感じたことを書けばいいのだから、リアリティが出てくる。それを文章に忠実に書き起こしさえすれば、読者は追体験することになるため、現実に起こっていることのように思え、共感を覚えることが可能となる。小説の面白さを感じることができるのだ。

 しかし、経験していないことを小説として書こうとした瞬間に大きな壁が聳え立つ。白い原稿用紙を前にしていったい何を書けばいいのだろうか、どのようなプロットで物語を進めればいいのだろうかと思い惑う。もちろんプロの作家は経験していないことでも書けてしまう。これが素人とプロの違いなのだが、それはどこから来るのだろうか。その差はいったい何なのだろうか。

 プロ作家は幼少の頃から大方本の虫である。膨大な読書を経験しているため、人間の性格や筋書きは脳に蓄積されていて、それを常に思い出しては新しい物語の可能性を無意識のうちに試行錯誤している。
 人間の生き方や価値観が無数にあるように、物語の可能性が尽きることはない。それに加えて、作家は文章の練達を何年も繰り返しているため、想うことを描き出す筆力に優れている。特定の人間を本物のようにリアルに書くには描写力が必要だ。その人物のセリフ、身につけているもの、態度、さらには情景描写を詳細にかつ的確に書くことで存在が浮き出て来る。平板でステレオタイプの人にしか見えなければ、それは生きている人物を描いているとは言えない。
 では、どのように書けばリアルに感じさせられるかを教えられるかというと、そんなに簡単ではない。そのため、素人作家や自称作家は身近な人物をモデルとして書こうとする傾向になってしまう。

 人間のリアリティや実存とは生きている実像が感じられるかである。ロボットのような人に読者は共感したり、感情移入したりしない。また、当然のことながら、その人物がある分野の優れた能力を持っていたり、成功者だったりする必要はない。それは俗世間の価値観であり、それが読者の共感を惹き付けるものではない。人間の本来の心持ちや態度が自然に描かれている必要があるのだ。ぐうたらな登場人物に存在感や人間の魅力を感じることだって大いにあり得る。

 以上は小説の世界の話だが、実世界でも似たようなことは起こっている。生き甲斐、生きている実感や悦び、自分がここに存在するというリアリティを確かに感じられる人は幸せである。それは過去に為した事柄の重さとはあまり関係がない。なぜならば、人生とは過去の知識や経験を基にして形成された自分が世界(モノ、人、事で形成される自分以外のすべて)との関わりにおいて、将来の何かに向けて、今何を選択し為すかということの積み重ねである。過去の実績が重いほど、未来もまた重いものを志向する。選択は死ぬまで続くが、それらは何かに向けられているものの、何かが実現できるかどうかは本人の達成感に違いはあるがそれは重要ではない。むしろ一瞬一瞬に自己の存在を十分認識し、実感できているかが重要である。それは何かによって償われるものではなく、それ自体が意義のあることなのだ。

 努力をせよと先生や親や上司は熱心に説く。その結果はうまくいく場合もあるが、そうでない場合もある。失敗したとき、それまでのプロセスは次に成功するための反省材料になるが、だからと言ってそれが否定されるべきものではない。そのプロセス自体に価値があるのだ。それを素直に認めることが大事なのだが、現代はあまりにも結果重視の価値観に偏重している。結果がすべてだという短絡思考に陥っている。だから生きていくのが息苦しいのだ。将来が不安に感じられるのだ。

 大学の研究現場でもその成果である論文の善し悪しばかり議論の対象になり、その科学者がプロセスにおいて何を考え、トライし、何を感じたのかという平凡な日常性がまったく考慮されない。人生の価値はその瞬間にこそ意味があると同様に、科学も科学者の日常性に意義があるべきと考える。科学者は科学そのものや国家の奴隷ではなく、生身の人間であるからだ。

 これらは大学の問題であるばかりでなく、会社や役所でも似たような現象が起こっている。結果ばかりが大手を振り、脚光を浴び、途中の過程が極度に軽視されている。ここにメスを入れない限り、現代人はいつになっても救われることはない。
 人々は厳しい仕事環境にあるばかりでなく、結果主義という非人間的な評価軸でがんじがらめにされている。現代の人間は解放されるのを待っているのだ。

(2017年3月27日、寺岡伸章)
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ワクワク、ドキドキ

 人間は言語を使うが、それではなぜ言語が存在するようになったのだろうか。それは目に見えないものを共有するしたいという欲求からである。モノが目の前にあれば、言語でとやかく説明する必要はないが、その場にないモノや抽象的な概念(夢、希望、平和、愛等)を表現し、相手に分かってもらうためには言語が必要になる。

 人間は一人ではか弱い存在であるため、集団で行動し、社会を作ったが、家族や社会の構成員と共感し合う能力は他の動物とは群を抜いている。つまり他人からの評価が自己存在の意義を見出してくれる。だから、仲間から無視されるのは非常に辛いのだ。人間は自ら自分の価値を規定できないのである。周囲から認められて初めて生き甲斐を感じられるのである。言葉は共感能力を強化するために発明されたと言える。

 いずれにしても、言葉の発明は科学を生み、文明を進化させた。科学を行う者、つまり科学者は人類がまだ知らない概念を創造するために、自然界の謎の森を一人で歩かないといけない。他人と共通の目標を持って集団行動するのではなく、オリジナリティを追求するため、孤独に耐えないといけないのだ。しかし、それは最終的に人類に貢献することであり、共感できるものを作ろうという行為そのものである。科学者は一人で森の中に入って行くが、目的地に辿り着けば、その存在が知られ人類共通の場になる。

 科学は客観性を装うが、客観的なものそのものはあまり面白くない。面白いのは主観的なものだ。主観的段階のものと言い換えた方がいいかもしれない。科学者が悦びを感じるのは一人でもがき、発見や発明のダイナミズムに我が身を捧げてワクワクしているときであり、それを誰かに説明する段階ではない。人々に理解してもらうには客観的で合理的な説明が必要なのであるが、じつはそれ自体は退屈な作業だ。分かってもらえたとしても、その楽しみは質が異なる。政府は一流の研究者にアウトリーチ活動を義務付けているが、科学者の本質を知らない愚行のようなものだ。納税者への義務だとか叫んでも、そのような活動は有能な科学者の時間を無駄に消費するだけである。科学者の心は政府にも一般国民にもあまり理解されていないのである。

 科学的知識が成熟し緻密化されてくると、科学は貧困化し、カオスや野蛮を求めるようになる。ちょうど写実主義がピカソや印象者の画家を誕生させたようなものだ。科学を面白くするために、既存の知識体系の破壊者が必要になってくる。人間の知識の体系化には自ずと限界があるため、自然に学べと叫ぶ者が出現する。動物の生態や自然の営みには人間の知性は叶わない。それは美しく、人々を魅了して止まない。自然から学ぶというゼロからの出発が必要になってくるのである。
 つまり、文明が進化し、行き詰まっても、その壁は打破できるという希望と夢があるのだ。いや天や宇宙から与えられていると言ってもいいかもしれない。人間は面白いことやワクワク感を感じずにはおられない。それは性による官能よりも根源的で深いものだろう。それは人間存在理由と切り離せるものではない。

 関西風に言えば「おもろい」を求め、まずは「やってみなはれ」という軽い気持ちが最初の一歩である。この一歩が踏み出せれば、目標は半分実現したようなものだ。科学も事業もやれば何でも面白く、世の中は面白いことで溢れている。それを感じる鋭いアンテナを常備しておくことも大切だ。これは他人から教えてもらうものではなく、自ら学ぶものである。人生は自ら探求するしかないのだ。

 人生を楽しむためには、深く考え、柔軟に発想し、気楽に行動することだ。ワクワクさせられる謎とその回答はいつでもどこでも用意されているのだから。

(2017年3月17日、寺岡伸章)
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都市鉱山から造るメダル

 今回は少し硬いお話です。
 都市鉱山とは、地上に蓄積された工業製品を資源とみなして「都市鉱山」と名付け、資源をそこから積極的に取り出す概念です。究極のリサイクルです。特に、金銀銅やレアメタルが注目されていますが、これらの貴金属類は携帯電話、PC、デジタルカメラ、MDプレーヤ、ゲーム機等の工業製品に使用されているため、経済的に回収、仕分け、試練できれば、海外から輸入する必要がないため、メリットは大きいのです。日本における国内再資源化率は、金28%、銀42%、銅17%となっていますが、先進国ではけっして高い数字ではありません。

 2020年の東京オリンピック・パラリンピックのメダルを都市鉱山から造ろうという運動が始まっています。これが全面的に実現できれば、オリンピック史上初の快挙になり、安全保障上や経済面でプラスになるだけでなく、クールな環境都市・東京を世界中にアピールできます。このプロジェクトの最大の課題は、国民まで理解が及び身の回りの使用されていない携帯電話等を市区町村や携帯電話会社に寄託してくれるかに依っています。メダルを造る事業を立ち上げるには、定期的に一定量の都市資源が搬入されてくることが必要です。洗練技術は確立されていますので、それ以降のプロセスは問題ありません。
 メダルプロジェクトが成功すれば、今後とも金属資源のリサイクルを事業化できるようになるでしょう。物質循環を行うのは文明社会の最終的な目標ですから、大きなチャレンジングです。

 海外から金属の鉱石原料を輸入し、それを精錬・加工して製品を作るというビジネスモデルは古くなっています。良質の資源が枯渇に向かい、発掘できなくなっているということもありますが、それ以上に鉱山開発による環境大破壊、労働災害、差別、貧困、暴力・殺人など諸々の悪を退治する必要があります。鉱山開発会社は暴力装置として途上国で横暴を奮っています。スマホ、PC等に支えられた我々の快適な生活は彼らの犠牲の上に成り立っています。まず、この顔を背けたくなる事実を知ることが大切です。

 選手達が人間の限界に挑む躍動感を享受するするだけでなく、彼らの目指すメダルも汚れのないものでありたいです。

(2017年3月14日、寺岡伸章)
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