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環境・生命文明

人生は気づきの積み重ね

 文科省の定年退職を前にしてわたしの心は清々しい。役所は天下り問題で存亡の危機に瀕し揺れていて、定年退職者は再就職できず「浪人」という中途半端な状態に置かれていて可哀想だが、「俗世間」で生きることを諦めた者としては気は楽だ。これからの人生は余計なことはせず、シンプルに生きたいと思っている。過去の栄誉も失敗もしがらみも要らない。60歳にして生まれ変わるのだから。

 村上春樹の小説『1Q84』の世界では、空中に2つの月が浮かんでいるが、主人公以外には誰もその存在に気が付かないという場面がある。みんな忙しくて下を向いて歩いていて、空を見上げようとしないからだ。月が2つもある世界は奇妙だが、その存在を認知できないのも変だ。でも、妙なリアリティがある。

 わたしはウォーキングが趣味の一つに持つが、真っ暗な夜明け前に着替えて外を散歩することがある。散歩しながら体が温まってくると、幸せな気分になる。周囲は次第に明るくなり、山の稜線も確認できるようになる。それからしばらく歩いていると、太陽が地上に顔を出す。地球創造の瞬間だ。地球は毎朝新たに生まれ変わっていることに気が付く。なぜこんな単純なことに今まで気が付かなったのだろうか。いろいろ本を読んだり、議論したりしてきたものだが、地球誕生のことは認知することはなかった。まさに認知症に罹っていたようなものだ。自分はバカだったと知らされる。

 日の出はじつに有り難い。天の恵みであり、生命の源だ。太陽によって生物は生かされているのがよく分かる。自然と両手を合わせてしまう。感謝しています、今後ともよろしくお願いしますと心の底から祈る。日本人は戦前、日の出を拝んでいたが、今では誰も拝まなくなった。その存在さえ人々は忘れてしまったかのように見える。ちょうど、2つの月が天空に浮かんでいるのに気が付かないのと似ている。人は見ようとしないものは目に映らない。もちろん心にも投影されないのだ。

 世の中は神秘と創造性に溢れている。神は美しい自然を我々に遺してくれている。それを楽しまない手はない。過去の芸術家や科学者は絵画、音楽、建築、小説、科学などを後世の我々に遺してくれている。文明のエッセンスが凝縮している人類の最高の財産である。これを享受しない手はない。そこには「人生は素晴らしい」という大切なメッセージが込められているからだ。

 ある程度年齢を重ねて来たら、肩の上の荷物を降ろしてシンプルに生きよう。今まで気が付かなかったことを大切にしよう。おてんとうさまに向かって手を合わせよう。みんなに感謝しよう。鎮守の森に出かけて神仏に向かって手を合わせよう。それをやるだけでも今まで知らなかった世界が見えてくる。唯物論や合理主義の立場で気が付かなかったじつに大切なもの、それは普遍的な言葉で説明できないが、それが分かるはずだ。

 早寝早起きはバイタリティーの源泉なのだから、即実行しようではないか。

(2017年3月28日、寺岡伸章)
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実存、そして生きると言うことの意味

 小説を描くのは楽しいが、登場人物を実際にいる者のように描くのは容易ではない。そのため、素人の書く小説は実際に著者が経験したことを元になっている場合が多くなる。経験談は自分の心が感じたことを書けばいいのだから、リアリティが出てくる。それを文章に忠実に書き起こしさえすれば、読者は追体験することになるため、現実に起こっていることのように思え、共感を覚えることが可能となる。小説の面白さを感じることができるのだ。

 しかし、経験していないことを小説として書こうとした瞬間に大きな壁が聳え立つ。白い原稿用紙を前にしていったい何を書けばいいのだろうか、どのようなプロットで物語を進めればいいのだろうかと思い惑う。もちろんプロの作家は経験していないことでも書けてしまう。これが素人とプロの違いなのだが、それはどこから来るのだろうか。その差はいったい何なのだろうか。

 プロ作家は幼少の頃から大方本の虫である。膨大な読書を経験しているため、人間の性格や筋書きは脳に蓄積されていて、それを常に思い出しては新しい物語の可能性を無意識のうちに試行錯誤している。
 人間の生き方や価値観が無数にあるように、物語の可能性が尽きることはない。それに加えて、作家は文章の練達を何年も繰り返しているため、想うことを描き出す筆力に優れている。特定の人間を本物のようにリアルに書くには描写力が必要だ。その人物のセリフ、身につけているもの、態度、さらには情景描写を詳細にかつ的確に書くことで存在が浮き出て来る。平板でステレオタイプの人にしか見えなければ、それは生きている人物を描いているとは言えない。
 では、どのように書けばリアルに感じさせられるかを教えられるかというと、そんなに簡単ではない。そのため、素人作家や自称作家は身近な人物をモデルとして書こうとする傾向になってしまう。

 人間のリアリティや実存とは生きている実像が感じられるかである。ロボットのような人に読者は共感したり、感情移入したりしない。また、当然のことながら、その人物がある分野の優れた能力を持っていたり、成功者だったりする必要はない。それは俗世間の価値観であり、それが読者の共感を惹き付けるものではない。人間の本来の心持ちや態度が自然に描かれている必要があるのだ。ぐうたらな登場人物に存在感や人間の魅力を感じることだって大いにあり得る。

 以上は小説の世界の話だが、実世界でも似たようなことは起こっている。生き甲斐、生きている実感や悦び、自分がここに存在するというリアリティを確かに感じられる人は幸せである。それは過去に為した事柄の重さとはあまり関係がない。なぜならば、人生とは過去の知識や経験を基にして形成された自分が世界(モノ、人、事で形成される自分以外のすべて)との関わりにおいて、将来の何かに向けて、今何を選択し為すかということの積み重ねである。過去の実績が重いほど、未来もまた重いものを志向する。選択は死ぬまで続くが、それらは何かに向けられているものの、何かが実現できるかどうかは本人の達成感に違いはあるがそれは重要ではない。むしろ一瞬一瞬に自己の存在を十分認識し、実感できているかが重要である。それは何かによって償われるものではなく、それ自体が意義のあることなのだ。

 努力をせよと先生や親や上司は熱心に説く。その結果はうまくいく場合もあるが、そうでない場合もある。失敗したとき、それまでのプロセスは次に成功するための反省材料になるが、だからと言ってそれが否定されるべきものではない。そのプロセス自体に価値があるのだ。それを素直に認めることが大事なのだが、現代はあまりにも結果重視の価値観に偏重している。結果がすべてだという短絡思考に陥っている。だから生きていくのが息苦しいのだ。将来が不安に感じられるのだ。

 大学の研究現場でもその成果である論文の善し悪しばかり議論の対象になり、その科学者がプロセスにおいて何を考え、トライし、何を感じたのかという平凡な日常性がまったく考慮されない。人生の価値はその瞬間にこそ意味があると同様に、科学も科学者の日常性に意義があるべきと考える。科学者は科学そのものや国家の奴隷ではなく、生身の人間であるからだ。

 これらは大学の問題であるばかりでなく、会社や役所でも似たような現象が起こっている。結果ばかりが大手を振り、脚光を浴び、途中の過程が極度に軽視されている。ここにメスを入れない限り、現代人はいつになっても救われることはない。
 人々は厳しい仕事環境にあるばかりでなく、結果主義という非人間的な評価軸でがんじがらめにされている。現代の人間は解放されるのを待っているのだ。

(2017年3月27日、寺岡伸章)
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ワクワク、ドキドキ

 人間は言語を使うが、それではなぜ言語が存在するようになったのだろうか。それは目に見えないものを共有するしたいという欲求からである。モノが目の前にあれば、言語でとやかく説明する必要はないが、その場にないモノや抽象的な概念(夢、希望、平和、愛等)を表現し、相手に分かってもらうためには言語が必要になる。

 人間は一人ではか弱い存在であるため、集団で行動し、社会を作ったが、家族や社会の構成員と共感し合う能力は他の動物とは群を抜いている。つまり他人からの評価が自己存在の意義を見出してくれる。だから、仲間から無視されるのは非常に辛いのだ。人間は自ら自分の価値を規定できないのである。周囲から認められて初めて生き甲斐を感じられるのである。言葉は共感能力を強化するために発明されたと言える。

 いずれにしても、言葉の発明は科学を生み、文明を進化させた。科学を行う者、つまり科学者は人類がまだ知らない概念を創造するために、自然界の謎の森を一人で歩かないといけない。他人と共通の目標を持って集団行動するのではなく、オリジナリティを追求するため、孤独に耐えないといけないのだ。しかし、それは最終的に人類に貢献することであり、共感できるものを作ろうという行為そのものである。科学者は一人で森の中に入って行くが、目的地に辿り着けば、その存在が知られ人類共通の場になる。

 科学は客観性を装うが、客観的なものそのものはあまり面白くない。面白いのは主観的なものだ。主観的段階のものと言い換えた方がいいかもしれない。科学者が悦びを感じるのは一人でもがき、発見や発明のダイナミズムに我が身を捧げてワクワクしているときであり、それを誰かに説明する段階ではない。人々に理解してもらうには客観的で合理的な説明が必要なのであるが、じつはそれ自体は退屈な作業だ。分かってもらえたとしても、その楽しみは質が異なる。政府は一流の研究者にアウトリーチ活動を義務付けているが、科学者の本質を知らない愚行のようなものだ。納税者への義務だとか叫んでも、そのような活動は有能な科学者の時間を無駄に消費するだけである。科学者の心は政府にも一般国民にもあまり理解されていないのである。

 科学的知識が成熟し緻密化されてくると、科学は貧困化し、カオスや野蛮を求めるようになる。ちょうど写実主義がピカソや印象者の画家を誕生させたようなものだ。科学を面白くするために、既存の知識体系の破壊者が必要になってくる。人間の知識の体系化には自ずと限界があるため、自然に学べと叫ぶ者が出現する。動物の生態や自然の営みには人間の知性は叶わない。それは美しく、人々を魅了して止まない。自然から学ぶというゼロからの出発が必要になってくるのである。
 つまり、文明が進化し、行き詰まっても、その壁は打破できるという希望と夢があるのだ。いや天や宇宙から与えられていると言ってもいいかもしれない。人間は面白いことやワクワク感を感じずにはおられない。それは性による官能よりも根源的で深いものだろう。それは人間存在理由と切り離せるものではない。

 関西風に言えば「おもろい」を求め、まずは「やってみなはれ」という軽い気持ちが最初の一歩である。この一歩が踏み出せれば、目標は半分実現したようなものだ。科学も事業もやれば何でも面白く、世の中は面白いことで溢れている。それを感じる鋭いアンテナを常備しておくことも大切だ。これは他人から教えてもらうものではなく、自ら学ぶものである。人生は自ら探求するしかないのだ。

 人生を楽しむためには、深く考え、柔軟に発想し、気楽に行動することだ。ワクワクさせられる謎とその回答はいつでもどこでも用意されているのだから。

(2017年3月17日、寺岡伸章)
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都市鉱山から造るメダル

 今回は少し硬いお話です。
 都市鉱山とは、地上に蓄積された工業製品を資源とみなして「都市鉱山」と名付け、資源をそこから積極的に取り出す概念です。究極のリサイクルです。特に、金銀銅やレアメタルが注目されていますが、これらの貴金属類は携帯電話、PC、デジタルカメラ、MDプレーヤ、ゲーム機等の工業製品に使用されているため、経済的に回収、仕分け、試練できれば、海外から輸入する必要がないため、メリットは大きいのです。日本における国内再資源化率は、金28%、銀42%、銅17%となっていますが、先進国ではけっして高い数字ではありません。

 2020年の東京オリンピック・パラリンピックのメダルを都市鉱山から造ろうという運動が始まっています。これが全面的に実現できれば、オリンピック史上初の快挙になり、安全保障上や経済面でプラスになるだけでなく、クールな環境都市・東京を世界中にアピールできます。このプロジェクトの最大の課題は、国民まで理解が及び身の回りの使用されていない携帯電話等を市区町村や携帯電話会社に寄託してくれるかに依っています。メダルを造る事業を立ち上げるには、定期的に一定量の都市資源が搬入されてくることが必要です。洗練技術は確立されていますので、それ以降のプロセスは問題ありません。
 メダルプロジェクトが成功すれば、今後とも金属資源のリサイクルを事業化できるようになるでしょう。物質循環を行うのは文明社会の最終的な目標ですから、大きなチャレンジングです。

 海外から金属の鉱石原料を輸入し、それを精錬・加工して製品を作るというビジネスモデルは古くなっています。良質の資源が枯渇に向かい、発掘できなくなっているということもありますが、それ以上に鉱山開発による環境大破壊、労働災害、差別、貧困、暴力・殺人など諸々の悪を退治する必要があります。鉱山開発会社は暴力装置として途上国で横暴を奮っています。スマホ、PC等に支えられた我々の快適な生活は彼らの犠牲の上に成り立っています。まず、この顔を背けたくなる事実を知ることが大切です。

 選手達が人間の限界に挑む躍動感を享受するするだけでなく、彼らの目指すメダルも汚れのないものでありたいです。

(2017年3月14日、寺岡伸章)
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田舎移住

 都会での仕事を辞め、田舎に帰郷すると真面目な顔をして言っても、信じない人は少なくない。なぜだろうか。わたしがウソを言っているとでも思っているのだろうか。おそらく、そのように疑問に思う人は、自分が田舎に移住する可能性はまったくないし、あってはならないとさえ考えているようだ。都会生活の方が面白いし、田舎は古い因習に凝り固まっていて、人付き合いも息苦しいと信じ切っている。少なくとも田舎の「退屈」さが耐えられないと信じて疑っていない。わたしは逆に質問したくなるが、都会はそれほど魅力的なところだろうか。ヨーロッパでは、文化や伝統が維持されている地方での生活を好む人が多いという事実を彼らはどのように評価しているのだろうか。

 ともあれ、今まで40年以上を東京でのみ(海外生活を除く)生活してきたのだから、急激な変化にどのように適応していくか心配がないわけではない。高校卒業時は希望に胸を膨らませていて、能力全開という勢いだったのに比べて、人生経験を通じて智恵と哲学を習得し、その結果冷静に田舎生活を選択したのだった。大げさに言えば、価値観のコペルニクス的転換だ。燃える情熱から冷静な判断に変わってはいるが、新しい事態にどのように適応できるか分からない。人生はいつになっても「初体験」である。

 人生は何か行動を起こさないと何も始まらない。止まっていては、死と同じである。
 わたしは別府のウォーキング同好会はすでに加入しているが、新たに、地元・八代の同人誌への加入、ゴルフ会員権の購入、スポーツジム、美術同好会、高校OBのハイキング同好会の加入を思案中である。加入すれば、これらに付随するように飲み会に誘われるだろう。飲めや歌えやの宴会が続くだろう。退屈なんてしてられない。
 もしかしたら、働いている今以上に忙しい毎日を送るようになるかもしれない。でも、平日と休日の区別がなくなってくると、いつ休養を取ればいいのだろうか。身体が持つかどうかも気がかりになる。そのような新しい心配もしなくてはならない。

 そこで立ち止まって考えると、不思議なことに気付く。こんなに時間を惜しんで活動していては、就職している現在とあまり大差はない。所得が得られるかどうかの違いはあるが、今という瞬間に没頭しようという態度は同じだ。はやりこれはおかしい。

 もっと真剣に「退屈」に向き合わなくてはならないのかもしれない。退屈を嫌ってはいけないのだ。もっと退屈を味方につけ、好きになることが必要だと思う。退屈は行動することも考えることもない無の状態と考えられているが、なぜそれをネガティブに捉えないといけないのだろうか。
 行動と思考がなくなっても、我々には感覚が残されている。五感をフルに活かして、季節の微妙な変化を感じたり、植物に話しかけたり、虫の声に耳を澄ますことはきっと楽しいと思う。それは退屈ではなく、ワクワクする発見の連続ではないかと思う。そう思わないかい?

 金銭を使わないと面白くない、退屈だと思うように仕向けられてきたのかもしれない。宣伝広告の洗脳力は本当に恐ろしい。近代以前の人間性を回復するには、退屈とうまく付き合うことが必要だと思う。
 生きているだけでも、それは奇跡である。もっと我々は感性を鋭くしなければならないのだろう。

(2017年3月2日、寺岡伸章)
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都会の絵の具

 先週金曜日はプレミアムフライデーのため、早退し6月上旬からの40日間のスペイン巡礼のために担ぐリュックとデッサン画材を買いに行きました。いい買い物ができました。ショッピングにはまったく関心がなかったのですが、デーパートを歩いて回るのも結構楽しいですね。退職後の一つの楽しみにしたいとテイクノートしました。

 日本の凋落や日中戦争の可能性の話がありましたが、今のわたしの関心事項ではありません。北京に長く駐在していたときには、両国の関係をどのようにすればいいのかと真剣に悩みましたが、もうそんな大それたことは考えません。後輩たちの判断に任せたいと思います。
 わたし個人としては、もう日中両国の関係に口を出しませんし、どうすることもできません。個人としてやれることは戦争が起こっても生きていくためにはどうすべきを考えることです。戦争だけでなく、国家破綻、円暴落、大地震などで日本脱出を迫られた場合、どこに行ってどのようにして生活していくかが関心事項です。米国か、タイか、スペインか。
 この先に起こることは何でもありです。予測不可能です。科学技術政策の狭い枠に囚われていては生き抜くのが難しいこともあり得ますね。難しい時代です。

 八代移住計画は少しずつ進めています。勧められていた地元の同人誌に入会を申し込んだところ、代表及び会員から大変喜ばれました。人から大歓迎されることは正直嬉しいですね。小説やエッセイを書いて行きます。現実世界よりも小説世界の方が面白いようにも思えます。また、八代のゴルフ会員権を買いたいと電話したところ、すぐに手続きするための資料を送ると嬉しそうに言ってくれました。週2~3回はコースに行き、80切りの大きな目標に挑戦したいです。
 別の友人は桜島から薩摩半島までの4.2キロの遠泳大会にでないかと誘ってくれていますが、こちらの方は回答は保留です。これだけの距離を泳ぐには相当の練習をこなさなければなりません。結構興味ありますが、できる見込みがないことには安易に返事しません。私の沽券に関わります。そのような時間を確保できるかどうかイメージできません。本音は是非やってみたいのですが、安請け合いをしないのが私流です。

 とまれ、生活は激変するでしょう。ノーモア満員電車、ノーモア会議は嬉しいのですが、来たるべき未来は期待と不安が入り交じっています。
 高校卒業して、九州から東京に出てくるとき、当時大流行していた『木綿のハンカチーフ』の歌を歌いながら「東へと向かう列車に乗って」上京しました。「都会の絵の具に染まらずに帰って」の歌詞に忠実だったのは良かったと思います。科学や合理主義の唯物論の世界からいのちやこころを大切にする唯心論の世界に軸を移して生きていきます。

 どうもいろいろお世話になり、ありがとうございました。

寺岡伸章