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絵画

絵は人の目を欺くこと

 デッサンを始めて数か月になるが、思うように描けないのがもどかしい。自分の絵が稚拙で想像性がないように思えてくる。それでも、また描きたくなる。対象は何でもよい。時計でも、財布でも、ワインのボトルでも、花きでも、写真の顔でもいいのだ。目に見えるものであれば、何でも構わない。うまくいくかどうかは別して、形を描くことにより、それに生命を吹き込めばいいだけの話だ。

 絵を描くときは集中し、細部を疎かにしないように努めるのだが、まだ技術が未熟なため鉛筆が思うように動いてくれない。花弁の曲線がどうも本物と違っている。消しゴムで消して、再度描いてもあまり似ていない。ストレスが溜まる。こうゆうことを繰り返していると、だんだん全体像が浮き上がってくる。そうすると、B3の鉛筆でもう一度全体の輪郭を描き、再び細部に戻っていく。輪郭を忠実に再現したり、今まで気が付かなかった陰影を探り出して、そこを強調する。自分にしか分からない発見で小躍りする。
 小休止だ。スケッチブックに目を近づけて観察すると、鉛筆の線が弱々しく、生きていないのに落胆する。なぜこうなのだろうか。経験が不足しているためで、繰り返し描くことで上達するものだろうか。
 今度は少し離れたところから見てみる。近くで見えた絵とは異なる表情を見せてくれる。意外にいいじゃないかと嬉しくなることがある。昨夜は海に浮かぶ帆船を描いたが、海面が本物のように感じられる。近くでは死んでいたのだが、遠くでは海が生き返っている。なぜこのようなことが起こるのだろうか。わたしの技量が低いのは前提として認めるのだが、作者が描いた絵は観察者によって再構築されるような気がする。画家は必死になって描き込むだけだ。ところが、観察者の脳裏には今まで経験した海の情景が詰まっていて、それを刺激し思い起こさせるのではないのか。絵はその触媒に過ぎない。その人の海への憧れが強いほどそこに描かれた絵は生き生きしてくる。まさに、絵を鑑賞するということは作者と観察者の共同作業のような気がする。自分の絵は自分で考えるほど下手ではないのではないか。もちろん自惚れてはいけないが、そのような観点も存在するということも忘れてはいけないように思う。
 観察者と被観察者の関係は先端科学の世界でも解明されていない、物事の真理はそれらの関係性で決定されるのだろう。そう考えると、作者がやらねばならないことはただ一つ。魂を込めて絵を描くことだ。生命が宿れば、絵は永遠に生き続け、観察者を感動させるのではないか。希望を持って立ち向かうしかない。

(2017年5月20日、寺岡伸章)
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神は細部に宿る

 わたしはものを書いたり、絵を描いたりすることが好きだ。魂の解放の手段であり、生きる喜びを感じる瞬間であるからだ。でも、楽しめる段階に至るにはある程度の技量が必要なことは避けられない。自らのスタイルが身に着くまでは努力を重ねる必要がある。研鑽の末、己にしかできない表現力のステージに登れば、それを永遠に伸ばしていけばよい。周囲の評価は別としても、そこまで行けば、才能を発揮できるし、唯一無二の自己の価値を発見できるのである。

 美術館に行って、歴史に残る作品に触れていると、作者の並みならない生命力を感じる。命の源は想像性である。よくもまあ、このような表現力を考え付いたものだと感心する。絵画でも、陶器でも、水墨画でも、彫刻でも同じように感じる。天才たちの苦悩とそこを突き抜けて新しいものを得た喜びが表現されている。絵画でいえば、そこに絵具を発見することはない。そこには作者の燃える魂や精神しか見いだせない。
 でも、素人の絵は違う。キャンバスの上に絵具を発見するのが落ちだ。せいぜい、うまいか下手かの評価があるだけだ。それはすぐに忘れられる矮小な評判でしかない。

 天才と凡庸を分け隔てるものは何なのだろうか。才能か、いやそれは重要であるが、本質ではない。訴える力だ。何を表現したいのかという強い意志があるかどうかだ。天才たちは全身全霊をかけて絵画に打ち込んでいる。食事のような矮小なことには関心を示さない。自分の持つ創造力の発揮こそがすべてである。
 それに比べると、素人は絵画を楽しんでいる。絵筆を動かし、何かが表現できれば、そこに満足し、安住してしまう。困難なことへの挑戦はない。自分の壁を打ち破ろうとするエネルギーも感じられない。昨年よりもうまくなったと自分を慰める。楽で気安い作業だ。絵画は趣味であり、そこは人生を賭ける場ではないため自ずとそうなってしまう。

 天才たちは幸福か不幸かは分からないが、人間の限界を突破し、可能性を模索している。産む苦しみと戦っている。自己の命をガリガリ削りながらも、新しい生命を生み出そうと格闘している。自己の存在理由を賭けているのでそれは壮絶な戦いである。彼らは隅々まで手を抜かない。空間でさえ意味を持たせている。乱雑に描かれているように見えても、そこには強烈な意思が込められている。キャンバスすべてが戦場である。作者の燃えるような想像性はどこの局面でも発揮されなければならない。精神の弛緩は敗北を意味する。細部を疎かにしてはならない。
 その結果、到達したステージが新しい表現方法であり、人間解放の瞬間ではなかろうか。芸術は美しい。同時に、人間も美しく燦然と輝くのだ。

(2017年5月19日、寺岡伸章)
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女性は美しく逞しい

 上京し、美術館と博物館めぐりを堪能してきた。「オセローのナビ展」(三菱一号館美術館)、「茶の湯」(東京国立博物館)、「シャセリオー展」(国立西洋美術館)、「スケーエン-デンマークの芸術家村」(国立西洋美術館)、「ミュシャ展-スラヴ叙事詩」(国立新美術館)、「草間彌生の永遠の魂」(国立新美術館)、「大英自然誌博物館展」(国立科学博物館)。天才たちの才気に圧倒され、自分が如何に矮小で何も知らない存在であるかを痛感させられた。でも、これらの体験を小説や絵画に生かしていきたいものである。
 なかでも、「草間彌生の永遠の魂」はチケット購入に1時間、入場に40分も時間を消費した上で、創造性溢れる草間彌生ワールドのエネルギーに打ちのめされ、会場を後にするころにはフラフラな状態だった。上野駅近くのホテルに戻って2時間半ものシエスタを貪り、夜の席に着いたのは40分の遅刻という有様だった。

 人間は何のために生きているのだろうかという一つの回答を強烈に感じた4日間だった。人間はもっと自由で想像的であらねばならぬ。けっして会社やお金の奴隷になってはならぬ。大自然と戯れ、自らの美的表現能力を最大限発揮するとき、人間は神に近づき、魂を浄化できるのである。至福の瞬間に、人生の賛歌が聴こえる。人生は素晴らしい。生きることは奇蹟の体験である。

 それにしても、どこに行っても女性は美しく、好奇心に満ち溢れていた。鑑賞者の8割は女性だったように思う。男性が会社で想像力を摩耗させられ、凡庸になっているとき、女性は想像力を蓄え、人間力を身に付けようとしている。芸術の神・ミューゼに変身しようと企んでいる。カネを稼ぐという近視眼的なことに励んでいる男たちがミューゼに勝てるはずがないではないか。
 男は形式的に女よりも優位にあるのかもしれないが、その姿は完全に形骸化している。女は美しく賢く、かつ逞しい。男は子どものまま成長できないでいる。会社にエネルギーを吸い取られ捨てられた男は世間から孤立し、自宅に引き籠っている。その間、女たちは街に出て美味しい食事をし、楽しいおしゃべりをし、美術館で感性を磨き、デパートでショッピングを楽しみ、防腐剤入りの食べ物を避け、戦争反対のデモに参加し、ときには郊外に出て自然の中で自分を解放する。女は素晴らしい存在だ。この世はすでに女性に征服されている。
 男は朽ち果てるしかないのか。再生する手段はただ一つ。女のするように振舞え。女の愛し、熱狂する場所に行け。そこは生命エネルギーと想像性で溢れているのだ。

(2017年5月19日、寺岡伸章)
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生活が第一

 定年を迎え仕事を辞めると、暇になると思っていたが、そうではないことが分かってきた。毎日の生活を送るうえで、結構忙しいのだ。
 昨日は電車に乗って、熊本市のデパートまで買い物に行った。ゴルフウェアのパンツ、半そでシャツ、アンダーウェアを買ったのだが、最終的な選択に行き着くまでどれが似合うかと妻と話し合いが続く。どれもこれも欲しいのだが、それなりの色とデザインのものに落ち着いた。
 今まで試着は面倒と思っていたが、やってみると面白い。ショッピングも楽しめるようになれそうだ。生活を充実させるための重要な要素であるにちがいない。仕事で何かを生み出すこととは異なる世界がそこにはある。仕事が価値があり、ショッピングは単なる消費にすぎないとは思えなくなってきた。それにしても、購入した3点の商品の価格はゴルフ会員権よりも高価であるのは複雑な気分だった。ゴルフは大衆のスポーツになったけれど、ファッション業界は新しいデザインと素材を創造し続けているということなのだろうか。

 わたしの買い物が終わると、妻の服を買うべく、婦人服売り場に向かった。妻のショッピングはまずフロワァー全体を一周して見渡し、その後気になったお店に入って自分のお気に入りのものを探し出そうというやり方だ。わたしも後ろから付いて歩き回ったのだが、婦人服は紳士服と違ってデザインも色彩もじつに豊富である。このような素敵な服を着た女性が街に溢れていたら、どんなに世の中は楽しいことだろうかと思った。一つ一つを念入りに見ると、デザイナーの工夫が偲ばれる。美的感覚に優れていないと気を引くものが作れない。わたしは最近絵画を描くようになったためか、構図や色彩に目が行くようになった。偏見があるかもしれないが、自分や他人の着る服に関心がないようでは、絵画は上達しないのではないかとさえ思う。
 美術クラブでも、美しい絵を描ける女性は美しい人が多いように感じる。美の追求が人生のワイフワークになっているのだろう。自分も化粧をして合致した服をまとい美しい女性でありたいし、自分の内面の感情もキャンバスに美しく描き出したいという一心なのだ。美こそ人生。なんと素晴らしいことなのだろうか。

 ショッピングを終えて、電車に乗って八代に帰ってきると、雨が降っていたが、フィットネスクラブに出かけることにした。最近は身体を柔らかくするストレッチと筋力増強の筋トレが面白い。まだ、クラブに通うようになって1か月足らずだが、少しだけ硬い身体が曲がるようになったと感じる。筋トレも負荷重量が増えて行くのは面白い。7つの筋トレマシーンで10回づつ、3セットやっている。楽と感じるマシーンは2.5キロづつ荷重を増やしていっている。限界はどこまで先にあるのだろうかと楽しみにしている。身体全体が逞しい筋肉で武装されていくような心地よい気分になる。でも、電車に乗ると席を譲ってもらうとき、複雑な気持ちになる。わたしは年寄りなのだろうか、それとも100キロを歩く超人なのだろうかと。

 ひと汗流して、帰宅すると、知り合いが新車の見積もりを持ってやってきた。わたしは運転しないが、運転手役の妻の気に入った車が決まった。トヨタのハイブリッド車のアクアにした。何回も販売店に足を運び試乗した後に、購買すべき車種が決まったのである。これで生活基盤がまた一つできたと言える。行動の範囲と機会がグンと増えることになるだろう。

 生活が第一である、と謳った政党があったが、まさにその通りである。仕事は生活に必要なお金を稼ぐ場でしかない。なるだけ多くのお金を楽して稼ぎたいのが人情であるが、どうせ拘束されるのであれば、自分の好みと能力に合ったものがいいに決まっている。でも、それが分からないのが課題である。多くの友達が定年退職のときに自分はこの仕事に合っていなかったので、ずいぶん苦労したとこぼしている。本当にそうなのかどうかは検証してみないと分からないが、人生は苦労はよく覚えているということなのかもしれない。
 他人と比較してはいけない。自分の人生は自分で切り開くしかないのだ。苦労も楽しみに変えていく柔軟な発想があるかどうかが多くのことを決するような気がする。
 今日一日はとても長かったが、でも充実していた。夢を抱いて前に進もう。

(2017年5月10日、寺岡伸章)
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通知表

 郷里の実家に戻り、両親が遺してくれた書類を整理していたら、子どもの頃の通知表が出て来た。幼稚園から中学生時代までのものがキチンと整っていた。それらをパラパラとめくっていて、少し驚いた。
 自分の記憶では、小学生時代は体育と音楽が得意でなかったが、それ以外の科目は優秀な成績を収めていたはずだった。神童とはいかないまでも、計算は速く、知能指数もそれなりに高かったとずっと思っていた。でも、現実は違う。

 小学生のときの成績は5はなく、3と4のオンパレードだ。中学生になって成績が伸び始めたので、その印象が強く残っている。小学生のときは平凡な生徒だったのだ。
 中学生の最初のテスト順位は21位だったが、それはクラスの中での位置と思っていたが、じつは学年400名超の順位だと知って大変驚いた。俺は自分が考えている以上に頭が良いのだと悟った瞬間だった。その後は努力を重ね、高校生まで成績が伸びていったのだ。そんなことがあったためか、小学生時代の成績に対する記憶は置き換わっていった。中の上でしかなかった成績がいつのまにか、小学生時代もオール5に近い成績を収めていたとずっと信じ込んでいた。
 突き放して言えば、知らぬ間に自ら過去を改ざんしていたことになる。記憶とはじつに当てにならないものだと思う。
 また、体育は幼少から駄目だったと思っていたが、幼稚園から小学生の低学年まで結構活発に動き回り、体育の成績も上位だったことが判明した。運動神経は悪い方ではなかったようだ。これもずっと誤解した人生の大半を送ってきたのだった。

 座学の成績が良く、運動は得意でないという秀才のイメージに置き換わってしまっていたのである。これは新しい気づきとして自分を見つめ直すきっかけとなった。60歳以降もっとも重要なのは運動能力である。これが優れていれば、他の能力を押し上げ、延長することができる。学校秀才の判定には体育の成績は重視されないが、定年退職後にもっとも大切な才能は活発に動き回ることができる体力である。そういう意味からも、この過去の発見は大いに勇気付けられたのだった。

 でも過去を振り返るのはこれくらいにしておこう。深く立ち入ってしまうと不幸に襲われることがある。わたしが4月に入会した文芸同人誌に自分史を書き始めた80歳代の会員が急死された。わたしはまだ会ったことがない人だったため、どのように考えてよいものか戸惑ってしまった。でも、別の80歳代の会員がその方の自分史の合評会で言われたことが印象に強く残っている。
「自分史を書き始めると早死にすることがあるので、長生きしたければそれを書くのは避けた方がよい」
 何だか腑に落ちる気がした。自分の心は死期を知っているのだろう。そのため、自分を振り返るようになり、それが自分史書きになって現れるのかもしれない。
 過去は時折振り返っても良いかもしれないが、そこに埋没するのは危険である。現在が良ければ、前述したように過去は書き換えられる。さらには、未来も明るいものとなる。自分の魂が悦びそうなことを今日もやり抜こう。それが精一杯生きるということだ。
 さて、今から絵を描くために美術クラブに出かけるため、ブログ書きを中止することとしたい。また、明日書こう。
Hasta manana.

(2017年5月8日、寺岡伸章)
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絵画は腰で描け

 デッサンを描くに当たってのアドバイス、ありがとうございます。流石に、セミプロの画家の言葉は重みがあります。
 「姿勢を正しくして、腰で書くことが重要」ですか。そうなると、絵描きもスポーツも似ていますね。ありがとうございます。役に立ちます。今度描くときに参考にしてみます。

 ぼくは何事も基礎が大事と思い、デッサン入門書を2冊購入し、それに沿って画いてみると、自分が描いたものではないように思えて、不思議です。うまく描けているように見えます。「抑えておくべき」基本やノウハウがあるのだと、感心しました。デッサンには、鉛筆の使用にも順番があると知り、新しい発見でした。

 先週の金曜日に発売された村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいるのですが、主人公は36歳の肖像画の画家です。画家が何を考えながら描いているかが克明に描写してあり、こちらも参考になります。
 モチーフの核心にあるものを描き出そうという姿勢は大変興味を引きます。対象の内面まで入り、それを描き出そうというのですから、写真撮影にはできない芸当です。絵画が芸術行為であるゆえんです。

 わたしの場合、デッサンを始めて最初の2年で基礎を学び、できるだけ癖を排し、忠実にそのものの輪郭を描き出すことです。その次のステップがモチーフの本質に迫ることだと考えています。無論、そこまでの観る眼があるかどうか自信はありませんが。

 わたしの母は最後の20年間、孤独を癒やすためか、絵画教室に行き、水墨画や水彩画を描いていました。それらの作品は親戚に進呈したり、実家は残されたりしています。
 偶然にも、わたしもデッサンをすることで、当時母が何を考えながら絵を描いていたかが、もしかすると理解できるかもしれません。人間は生死の境を超えて交流し会えるとかもしれません。人は死んでも生きている者にメッセージを送ることが可能です。それを受けとることで、時空を超えることができます。
 芸術の素晴らしさはそんなところにもあるのではないでしょうか。芸術は永遠であり、仕事は刹那的であります。

(2017年2月2日、寺岡伸章)
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