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絵画

女性は美しく逞しい

 上京し、美術館と博物館めぐりを堪能してきた。「オセローのナビ展」(三菱一号館美術館)、「茶の湯」(東京国立博物館)、「シャセリオー展」(国立西洋美術館)、「スケーエン-デンマークの芸術家村」(国立西洋美術館)、「ミュシャ展-スラヴ叙事詩」(国立新美術館)、「草間彌生の永遠の魂」(国立新美術館)、「大英自然誌博物館展」(国立科学博物館)。天才たちの才気に圧倒され、自分が如何に矮小で何も知らない存在であるかを痛感させられた。でも、これらの体験を小説や絵画に生かしていきたいものである。
 なかでも、「草間彌生の永遠の魂」はチケット購入に1時間、入場に40分も時間を消費した上で、創造性溢れる草間彌生ワールドのエネルギーに打ちのめされ、会場を後にするころにはフラフラな状態だった。上野駅近くのホテルに戻って2時間半ものシエスタを貪り、夜の席に着いたのは40分の遅刻という有様だった。

 人間は何のために生きているのだろうかという一つの回答を強烈に感じた4日間だった。人間はもっと自由で想像的であらねばならぬ。けっして会社やお金の奴隷になってはならぬ。大自然と戯れ、自らの美的表現能力を最大限発揮するとき、人間は神に近づき、魂を浄化できるのである。至福の瞬間に、人生の賛歌が聴こえる。人生は素晴らしい。生きることは奇蹟の体験である。

 それにしても、どこに行っても女性は美しく、好奇心に満ち溢れていた。鑑賞者の8割は女性だったように思う。男性が会社で想像力を摩耗させられ、凡庸になっているとき、女性は想像力を蓄え、人間力を身に付けようとしている。芸術の神・ミューゼに変身しようと企んでいる。カネを稼ぐという近視眼的なことに励んでいる男たちがミューゼに勝てるはずがないではないか。
 男は形式的に女よりも優位にあるのかもしれないが、その姿は完全に形骸化している。女は美しく賢く、かつ逞しい。男は子どものまま成長できないでいる。会社にエネルギーを吸い取られ捨てられた男は世間から孤立し、自宅に引き籠っている。その間、女たちは街に出て美味しい食事をし、楽しいおしゃべりをし、美術館で感性を磨き、デパートでショッピングを楽しみ、防腐剤入りの食べ物を避け、戦争反対のデモに参加し、ときには郊外に出て自然の中で自分を解放する。女は素晴らしい存在だ。この世はすでに女性に征服されている。
 男は朽ち果てるしかないのか。再生する手段はただ一つ。女のするように振舞え。女の愛し、熱狂する場所に行け。そこは生命エネルギーと想像性で溢れているのだ。

(2017年5月19日、寺岡伸章)
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生活が第一

 定年を迎え仕事を辞めると、暇になると思っていたが、そうではないことが分かってきた。毎日の生活を送るうえで、結構忙しいのだ。
 昨日は電車に乗って、熊本市のデパートまで買い物に行った。ゴルフウェアのパンツ、半そでシャツ、アンダーウェアを買ったのだが、最終的な選択に行き着くまでどれが似合うかと妻と話し合いが続く。どれもこれも欲しいのだが、それなりの色とデザインのものに落ち着いた。
 今まで試着は面倒と思っていたが、やってみると面白い。ショッピングも楽しめるようになれそうだ。生活を充実させるための重要な要素であるにちがいない。仕事で何かを生み出すこととは異なる世界がそこにはある。仕事が価値があり、ショッピングは単なる消費にすぎないとは思えなくなってきた。それにしても、購入した3点の商品の価格はゴルフ会員権よりも高価であるのは複雑な気分だった。ゴルフは大衆のスポーツになったけれど、ファッション業界は新しいデザインと素材を創造し続けているということなのだろうか。

 わたしの買い物が終わると、妻の服を買うべく、婦人服売り場に向かった。妻のショッピングはまずフロワァー全体を一周して見渡し、その後気になったお店に入って自分のお気に入りのものを探し出そうというやり方だ。わたしも後ろから付いて歩き回ったのだが、婦人服は紳士服と違ってデザインも色彩もじつに豊富である。このような素敵な服を着た女性が街に溢れていたら、どんなに世の中は楽しいことだろうかと思った。一つ一つを念入りに見ると、デザイナーの工夫が偲ばれる。美的感覚に優れていないと気を引くものが作れない。わたしは最近絵画を描くようになったためか、構図や色彩に目が行くようになった。偏見があるかもしれないが、自分や他人の着る服に関心がないようでは、絵画は上達しないのではないかとさえ思う。
 美術クラブでも、美しい絵を描ける女性は美しい人が多いように感じる。美の追求が人生のワイフワークになっているのだろう。自分も化粧をして合致した服をまとい美しい女性でありたいし、自分の内面の感情もキャンバスに美しく描き出したいという一心なのだ。美こそ人生。なんと素晴らしいことなのだろうか。

 ショッピングを終えて、電車に乗って八代に帰ってきると、雨が降っていたが、フィットネスクラブに出かけることにした。最近は身体を柔らかくするストレッチと筋力増強の筋トレが面白い。まだ、クラブに通うようになって1か月足らずだが、少しだけ硬い身体が曲がるようになったと感じる。筋トレも負荷重量が増えて行くのは面白い。7つの筋トレマシーンで10回づつ、3セットやっている。楽と感じるマシーンは2.5キロづつ荷重を増やしていっている。限界はどこまで先にあるのだろうかと楽しみにしている。身体全体が逞しい筋肉で武装されていくような心地よい気分になる。でも、電車に乗ると席を譲ってもらうとき、複雑な気持ちになる。わたしは年寄りなのだろうか、それとも100キロを歩く超人なのだろうかと。

 ひと汗流して、帰宅すると、知り合いが新車の見積もりを持ってやってきた。わたしは運転しないが、運転手役の妻の気に入った車が決まった。トヨタのハイブリッド車のアクアにした。何回も販売店に足を運び試乗した後に、購買すべき車種が決まったのである。これで生活基盤がまた一つできたと言える。行動の範囲と機会がグンと増えることになるだろう。

 生活が第一である、と謳った政党があったが、まさにその通りである。仕事は生活に必要なお金を稼ぐ場でしかない。なるだけ多くのお金を楽して稼ぎたいのが人情であるが、どうせ拘束されるのであれば、自分の好みと能力に合ったものがいいに決まっている。でも、それが分からないのが課題である。多くの友達が定年退職のときに自分はこの仕事に合っていなかったので、ずいぶん苦労したとこぼしている。本当にそうなのかどうかは検証してみないと分からないが、人生は苦労はよく覚えているということなのかもしれない。
 他人と比較してはいけない。自分の人生は自分で切り開くしかないのだ。苦労も楽しみに変えていく柔軟な発想があるかどうかが多くのことを決するような気がする。
 今日一日はとても長かったが、でも充実していた。夢を抱いて前に進もう。

(2017年5月10日、寺岡伸章)
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通知表

 郷里の実家に戻り、両親が遺してくれた書類を整理していたら、子どもの頃の通知表が出て来た。幼稚園から中学生時代までのものがキチンと整っていた。それらをパラパラとめくっていて、少し驚いた。
 自分の記憶では、小学生時代は体育と音楽が得意でなかったが、それ以外の科目は優秀な成績を収めていたはずだった。神童とはいかないまでも、計算は速く、知能指数もそれなりに高かったとずっと思っていた。でも、現実は違う。

 小学生のときの成績は5はなく、3と4のオンパレードだ。中学生になって成績が伸び始めたので、その印象が強く残っている。小学生のときは平凡な生徒だったのだ。
 中学生の最初のテスト順位は21位だったが、それはクラスの中での位置と思っていたが、じつは学年400名超の順位だと知って大変驚いた。俺は自分が考えている以上に頭が良いのだと悟った瞬間だった。その後は努力を重ね、高校生まで成績が伸びていったのだ。そんなことがあったためか、小学生時代の成績に対する記憶は置き換わっていった。中の上でしかなかった成績がいつのまにか、小学生時代もオール5に近い成績を収めていたとずっと信じ込んでいた。
 突き放して言えば、知らぬ間に自ら過去を改ざんしていたことになる。記憶とはじつに当てにならないものだと思う。
 また、体育は幼少から駄目だったと思っていたが、幼稚園から小学生の低学年まで結構活発に動き回り、体育の成績も上位だったことが判明した。運動神経は悪い方ではなかったようだ。これもずっと誤解した人生の大半を送ってきたのだった。

 座学の成績が良く、運動は得意でないという秀才のイメージに置き換わってしまっていたのである。これは新しい気づきとして自分を見つめ直すきっかけとなった。60歳以降もっとも重要なのは運動能力である。これが優れていれば、他の能力を押し上げ、延長することができる。学校秀才の判定には体育の成績は重視されないが、定年退職後にもっとも大切な才能は活発に動き回ることができる体力である。そういう意味からも、この過去の発見は大いに勇気付けられたのだった。

 でも過去を振り返るのはこれくらいにしておこう。深く立ち入ってしまうと不幸に襲われることがある。わたしが4月に入会した文芸同人誌に自分史を書き始めた80歳代の会員が急死された。わたしはまだ会ったことがない人だったため、どのように考えてよいものか戸惑ってしまった。でも、別の80歳代の会員がその方の自分史の合評会で言われたことが印象に強く残っている。
「自分史を書き始めると早死にすることがあるので、長生きしたければそれを書くのは避けた方がよい」
 何だか腑に落ちる気がした。自分の心は死期を知っているのだろう。そのため、自分を振り返るようになり、それが自分史書きになって現れるのかもしれない。
 過去は時折振り返っても良いかもしれないが、そこに埋没するのは危険である。現在が良ければ、前述したように過去は書き換えられる。さらには、未来も明るいものとなる。自分の魂が悦びそうなことを今日もやり抜こう。それが精一杯生きるということだ。
 さて、今から絵を描くために美術クラブに出かけるため、ブログ書きを中止することとしたい。また、明日書こう。
Hasta manana.

(2017年5月8日、寺岡伸章)
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絵画は腰で描け

 デッサンを描くに当たってのアドバイス、ありがとうございます。流石に、セミプロの画家の言葉は重みがあります。
 「姿勢を正しくして、腰で書くことが重要」ですか。そうなると、絵描きもスポーツも似ていますね。ありがとうございます。役に立ちます。今度描くときに参考にしてみます。

 ぼくは何事も基礎が大事と思い、デッサン入門書を2冊購入し、それに沿って画いてみると、自分が描いたものではないように思えて、不思議です。うまく描けているように見えます。「抑えておくべき」基本やノウハウがあるのだと、感心しました。デッサンには、鉛筆の使用にも順番があると知り、新しい発見でした。

 先週の金曜日に発売された村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいるのですが、主人公は36歳の肖像画の画家です。画家が何を考えながら描いているかが克明に描写してあり、こちらも参考になります。
 モチーフの核心にあるものを描き出そうという姿勢は大変興味を引きます。対象の内面まで入り、それを描き出そうというのですから、写真撮影にはできない芸当です。絵画が芸術行為であるゆえんです。

 わたしの場合、デッサンを始めて最初の2年で基礎を学び、できるだけ癖を排し、忠実にそのものの輪郭を描き出すことです。その次のステップがモチーフの本質に迫ることだと考えています。無論、そこまでの観る眼があるかどうか自信はありませんが。

 わたしの母は最後の20年間、孤独を癒やすためか、絵画教室に行き、水墨画や水彩画を描いていました。それらの作品は親戚に進呈したり、実家は残されたりしています。
 偶然にも、わたしもデッサンをすることで、当時母が何を考えながら絵を描いていたかが、もしかすると理解できるかもしれません。人間は生死の境を超えて交流し会えるとかもしれません。人は死んでも生きている者にメッセージを送ることが可能です。それを受けとることで、時空を超えることができます。
 芸術の素晴らしさはそんなところにもあるのではないでしょうか。芸術は永遠であり、仕事は刹那的であります。

(2017年2月2日、寺岡伸章)
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GDP27位の国

 東芝は解体的危機に瀕している。米の原子力事業会社買収はまったく間違った判断であった。7千億円規模の欠損を記録し、その重みのため債務超過になった可能性が高い。倒産だ。経営者はいったい何をしていたのだろうか。原子力ルネッサンスという言葉に惑わされたのか、買収先の経理情報が隠蔽されていたのか。それにしても、それを見破れなかった経営者責任は負うべきである。
 かつて日本型経営は長期的視点で投資を行う、株主でなく従業員やクライアントや取引先を大切にするなど好意的に評価されてきたが、雲行きは怪しい。三菱自動車、シャープ、三洋など経営が破綻し、外資に買収されているのではないか。もの作り日本の敗北であるが、大方の日本人はそれを認めようとしていない。

 日本のGDP規模は世界3位だが、一人当たりのGDPは世界27位(2014年)まで転落した。4万ドルを切る直前にある。シンガポールにははるかに及ばず、香港にも抜かれている。28位はイタリア、29位はスペイン、30位は韓国が迫っている。もはや経済は一流とはとても言えない。少子高齢化と格差拡大の厚い雲が日本を暗くしているが、国民は政府に対してデモを起こすでもなく静かにしている。自宅に引きこもり、自然死を待っているのだろうか。

 国力が衰えているこんな状態で科学技術力が維持できるはずがない。もはや博士号を取得できる層は金持ちの師弟になっている。普通のサラリーマンは子どもを28歳まで養えるお金がないし、国の支援も貧弱である。お隣の中国ではまだ貧乏な子どもでも優秀であれば、学者になる夢が叶えられるのだ。教育は国家百年の計と言うが、為政者の眼力が異なるようだ。

 マスメディアにも危機感がない。日本人は凄いぞという番組を垂れ流したり、魅力的な国ニッポンに外国人が押し寄せているニュースばかりだ。国民全体が国力の低下から目をそらしているのはわたしの偏見なのだろうか。負の側面を見せない国家レベルの情報統制が行われているのではないかと疑ってしまう。大陸の国を嗤う資格はないのだ。

 今年はスペイン巡礼で40日間以上を過ごす予定だ。物価は安いと聞いていたが、数年後には円がもっと安くなり、スペイン貧乏旅行はできなくなるかもしれない。
 16年前にバンコクに駐在していときには、老後はチェンマイに別荘を購入し、毎日ゴルフをやりたいと夢を描いていたが、今では日本の田舎の方が安い。4000円以内で1ラウンドできるコースも多々あるが、団塊の世代がゴルフを引退する数年後にはもっと価格は下がるだろう。タイ移住の夢はあっけなく消えた。ゴルフ場は大方外資に買収されているが、日本の田舎が一番だ。

 人口が減少し、平均年齢が上がる状況下で、国力を上昇させる妙案はない。政策ではどうにもなりそうもない。
 GDPは低くても、豊かな社会を目指すしかない。お金のかからない心が豊かに感じる活動を増やしていこう。発想を変えて、貨幣を使わないようにしよう。家庭の外へのアウトソーシングをやめるのだ 。
 お祭りに参加しよう、地方の歴史を勉強しよう、天気の良い日にはハイキングに行こう、絵を描いたり音楽を演奏したりしよう、仲間が集まって野外で料理をして笑顔で飲食しよう、早朝に散歩しラジオ体操をやろう、貧しい家庭の子どもには勉強を教えてあげよう、家庭菜園で余ったものは近所にお裾分けしよう、環境保護活動に参加しよう、無料の講演会に行って勉強しよう、防犯や防災も自分たちでやろう、毎朝笑顔で挨拶しよう。
 そうやればお金はなくても、楽しい人生を送れるはずだ。

 今までの価値観とやり方を捨てなければ、未来はやって来ない。

(2017年2月15日、寺岡伸章)
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べき論と印象派絵画

 お酒を飲みほろ酔い加減で議論をするのは楽しい。抑えていた脳の理性が麻痺し、古い基層の本能に近いところから本音が現れて来る。TPOを度外視してつまりゼロベース(前提なし)で議論できるようになる。こうなると、日頃発言するのが憚られたアイデアの敷居が低くなる。
 思わず口に出て、周囲の同意が得られ、「いいじゃないか、それ」という風になる。人間とは変な動物で、一度いいね!を出すと、素面のときでも、反対はしにくくなる。こうやって、アイデアが実現する可能性があるのだから、優秀な経営者は社員をリラックスさせる雰囲気を作ろうとする。談話室を設けたり、おしゃべりをしたくなる芸術的な部屋を作ったり、サークルや同郷会の集まりを促す。議論を活発にする雰囲気作りは効率を飛躍的に上げるのに最適である。

 でも、飲み会であまり生産的でない議論もある。典型的な例は「べき論」だ。日本は政治家のここがダメだとか、誰々は何々しなければならない、我が社はこうあるべきだとかという議論だ。
 一見もっともらしく知的なのだが、長くそればかり聞かされると、だんだんうんざりしてくることがある。共産党ではあるまいし、批判ばかりしていても、解決に向けて前に進まないのだ。でも、このような議論を展開する人は少なくない。
 知識量が多く、異なる情報を交差させて分析し、議論してくるので、迫力がある。耳をそばだてていると、議論が循環していて展開が鈍いことが分かってくる。快適さはなくなり、雑音に聞こえ始める。「べき論」の語り部は物事を新鮮な目で切り取るのが不得手なのだ。物事が解決されずに残っているのは、それが難題であるからで、脱出方法が易々と見つかることは少ない。産みの苦しみや偶然の発見が必要なのだ。

 ヨーロッパの文化はキリスト教の影響を強く受けている。科学も、音楽も、絵画も例外ではない。文化は人の心の発現なのだから、宗教心から完全に自由であるのは容易ではない。それでも、難題に挑んだ人々はいる。印象派画家だ。
 彼らは写実的であることを放棄し、心に浮かぶありのままを表現することに忠実だった。池に浮かぶ蓮、踊り子、裸で日光浴をする女性。どこにでもあるごく日常の風景だ。退屈なくらいありふれた場面であり、それが何か特別な意味を持っているわけではない。それでも、印象派画家はそれらの取るに足らない一場面を切り取り、その心に浮かぶ印象をキャンバスに素直に描いてみせた。
 そこには神の教えや人生の教訓はかけらもない。ただ、日常であるがゆえに、人々の生活感がよく表現され、かえって人生の大切な場面が映し出されている。宗教性をまったく失うことで、神から自由になり、人間存在の賛歌が聞こえてくるようだ。
 印象派の独創性はこうやって生まれたのではなかろうか。新鮮な感覚で物事を観察することが大切なのだ。べき論とは対極的な位置にあると思う。

 絵画や音楽に親しむと、思いがけないところからヒントが得られることがある。人間の行為はすべてがつながっているのだ。飲み過ぎるのは良くないが、議論に力が入りすぎるのも良くないようだ。気をつけよう。

(2017年2月15日、寺岡伸章)
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