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絵画

悪くない一日

 今日は木曜日ですが、昨日のことを思い出しながら書いています。
 まず、いつものように早朝6時30分に起床し、NHKラジオで英語、ドイツ語、スペイン語、フランス語、中国語を学習しました。複数の外国語を同時に勉強すると、頭のなかがこんがらかってしまうため、避けた方がいいという人もいますが、果たしてそうでしょうか。実際にやってみないと分かりません。自分を実験台として実験中です。数か月経てばその結果が分かるかもしれません。楽しみです。

 それから朝食を摂り、午前中は水彩画を描きました。花の咲いているヨーロッパの庭園です。花は人間への偉大な贈り物と思います。模写ですが、予想以上の出来栄えに大変満足しています。こうやって集中して描くと、旅情が沸き起こりますね。またヨーロッパの田舎を歩いてみたくなりました。

 午後は、来月のマラソン大会に備えて30キロ走に挑戦しました。冷たい風の吹くなかでの7回目のトライアルでしたが、徐々にタイムが縮まってきています。目標の5時間切りまでもうひと踏ん張りといったところでしょうか。本番まで4週間を切り、身の引き締まる思いです。

 帰宅して、お風呂に入りゆったりした後、ビールを飲みます。まさに、至福のひと時です。苦労して走ったのですから、楽しいことがないと報われません。
 夕食後、1時間睡眠を取ったら頭が冴えてきました。再び、お花の水彩画を描きます。自分としてはまずまずの仕上がりだったのですが、妻に見せると、「いまいちね。次は頑張って」というつれない返事。

 でも、今日は悪くない一日でした。上出来でないが、少しいい、あるいはそんなに悪くない毎日を送っていきたいものです。
 時間のたっぷりある退職者の身にはこのような生き方がピッタリ合っているのでしょうか。

(2018年1月25日、寺岡伸章)
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年間スケジュール

 今年1年間やりたいことややるべきことを書き出してみた。
 1月。2月中旬の熊本城マラソン大会に向けた走り込みとして30キロ走8回。新たに水彩画絵と源氏物語の英訳読解に挑戦開始。
 2月。マラソン大会5時間切りの目標。それが終われば、家族で大宰府への1泊旅行。梅の花を観賞し、名門旅館でゆったりしたい。
 3月。初孫が無事出産すれば、初対面のため上京。ついでに、かつての職場の仲間と同窓会をやったり、美術館巡りを楽しみたい。4月からのサンティアゴ巡礼に向けて準備。
 4月。結婚28周年で天草か南阿蘇の旅館でくつろぎたい。下旬にはサンティアゴ巡礼の徒歩1000キロの旅に出かける。
 5月。ずっとスペインを歩いているはずだが、巡礼終了後は芸術の都パリで、美術館巡りだ。
 6月。いよいよ始まるワールドカップサッカー大会でテレビ釘付けになるだろう。
 7月。特段の予定はまだないが、ゴルフ三昧の日々か。
 8月。展覧会に水彩画を出品するために、絵描きに集中。神経を休ませるために、水泳を楽しもう。
 9月。10月の行橋別府100キロウォーク大会に向けて特訓。
 10月。100キロウォーク大会は16時間台が目標だが、果たして達成できるか。20日の地元の花火競技大会は桝席で鑑賞したいものだ。
 11月。妻と奄美大島を歩いて一周したい。250キロくらいあるかな。23日は世界文化遺産に登録されたお祭りを堪能したい。母の7回忌を迎える月でもある。
 12月。今年も年賀状はすべて手書きの水彩画を描き上げたい。
 一年間の予定はこんな感じになった。健康に留意しつつ、スポーツと文化を享受する年にしたい。新しい出会いも大切にしたい。予定外の楽しいことがあれば、さらに素晴らしいだろう。
 あなたにも自分に合った良い1年を過ごしてもらいたい。

(2017年1月4日、寺岡伸章)
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犬も歩けば棒に当たる

 定年退職を機に、美術を始めた。小中学生のときのことを思い出すと、音楽と体育はまったくダメだったが、美術はそこそこの成績を収めていた。さらに、自宅に放置してあった荷物を整理していると、高校時代に獲得した西日本読書感想画入選の盾が出て来た。すっかり忘れていたのだが、当時の模様が鮮明に思い出される。これも何かの啓示なのだと思い、美術を始めたのである。じつに43年ぶりのことだ。

 まずは基本からと考え、デッサンに取り掛かった。有名な絵画の模写、自分や身近な人の顔写真の写生、果物や野菜などの静物画に挑戦した。やってみると、意外にもいい出来栄えだ。もちろん、半分は自惚れているのだ。何の責任も果たさなくてもよい悠々自適な生活を得たのだから、少しぐらい自画自賛してもよかろう。こんなことは人生のほんの一時期にしか起こらないことなのだから。

 デッサンを数十枚描いて気づいたことがある。描く対象の欠点が重要な要素であり、描く上でのカギとなる。例えば、顔の写生を行う場合、ほくろ、皺、シミをうまく発見して、描き出すことが、その人の個性を引き出すうえで大切なことのようだ。目も左右で異なるし、鼻も曲がっているし、唇も不格好である。これらの崩れを見抜き捉えないといけない。そうすると、自然と画用紙に浮かぶ顔が本物に似てくる。

 果物でも同じである。傷やシミのない果物はじつに描きにくい。欠点があるほど、描く材料が増え、描きやすくなる。人間も同じようだ。
 ただ、それらの欠点はしっかり観察しないと発見できないことが多い。微妙な影や皺はぼぉーとしていては分からない。対象物としっかり対峙しないといけないのだ。真剣勝負と思わないといけない。
 果物からすると、描いてくれてありがとうと、言われるくらいになりたいものだ。作者にとっては、果物は画材にもなり、食しても美味しいのだから嬉しい限りだ。今までただ食べるだけで気づかなかった果物の表情が分かるようになったようだ。果物冥利に尽きるだろう。

 こんなことをやっていると、思わぬところからオファーがやってくる。太鼓を叩いている裸の男性の写真を差し出され、これを描いてみないかと言われたり、肥後六花を描いたグラスを地元の特産品として販売したいが、花の絵をイラストできないかと誘われたり、新聞のモノクロギャラリーに投稿してみたらと催促されたりするようになった。
 どれも、駆け出しの私にとっては身に余る光栄であるが、同時に身が引き締まる。仕事で感じた感覚が呼び起こされるのだ。これが快適か不快かで、ことの成否が決まるのだろうか。私の場合どちらに転ぶのだろうか。

 犬も歩けば棒に当たる。死ぬまで、完全に解放してくれそうもない。

(2017年9月26日、寺岡伸章)
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自画像

 自分を見詰めるのは辛い。現代の生活は忙しいため、1日のうちで何をやるかに関心が行き、自分の心や精神状態を詳細に観察することはあまりやらない。おしゃれするとき以外は、自分の顔さえ観賞の対象にならない。どのような顔色なのか、内面がどのように表情に現れているかは快適に生きる上で非常に重要なはずだが、そこまで意識して顔を覗くことはあまりない。せいぜい、老けたな、疲れているなと思うくらいだ。心の有り様がその人の幸福度を決定するはずなのだが、幸福度の尺度は定量化されたお金や地位に還元され、顧みられることはない。もっと自分について考える時間帯が多くてもよかろう。

 絵画を描き始めると、風景画や静物画に着手するのが普通なのだが、自画像に面と向かう初心者はあまりいない。自分の顔を描くのは恥ずかしいからなのだが、それは日ごろ慣れていないことをしたくないという気持ちが浮かぶからだろう。さらに言えば、自画像は知らず知らず自分の知らない自分が描き出されるリスクもある。素っ裸で公衆の面前に立ちたくないというのと同じで、内面を曝したくないという気持ちが働く。プライバシーとして隠したがる。だから、自画像は避けられる嫌いがある。でも、自画像に挑戦し続けてきた画家は少なくない。自分をうまく描けなくして、風景や事物を描けるはずはないという思いがあるのではなかろうか。

 自画像と言えば、ゴッホを思い出すが、彼はじつに多くの自画像を描いている。本人は悪戦苦闘して、様々な自画像に挑戦したのかもしれないが、発想を変えてみると、それらのどの絵が本人を忠実に表現しているのだろうか。ゴッホは自分の真実の姿を描いたものだけを追及したのだろうか。それは違うような気がする。
 自分自身はじつに多面的なのだ。昨日の自分と今日の自分は異なる。対人関係でも誰に接しているかで、気持ちや態度がずいぶん違ってくる。それは自分を飾っているからではなく、自分の中の自分を演じているにすぎない。世間で演じられた自分もまた真実の断面なのである。
 そうなのだ、自分は唯一絶対の存在ではなく、つねに揺らいでいる。科学の先端を紹介するまでもなく、揺らぎは人間だけではなく、生物の本質でもある。生物界は多様であるように、人間個人もまた多様であるのだ。個人は固定された存在ではなく、ダイナミックにかつ自在に変貌する存在であるのだ。それは個人に対して分人とも呼べるかもしれない。

 現代社会はストレスが多く、精神の疾患で悩む人は少なくない。人々は最大のパフォーマンスを上げることを常に求められ、その結果によって評価されている。動機や心の状態に関わらず、外に現れた業績で個人の価値が定められる傾向にある。外面と心の間で人は悩み、バランスが崩れると病気になる。自分はダメな奴だと責め続ける人もいる。
 本当はそんなことはない。会社の自分は一人の自分でしかないし、家族の中の自分、運動を楽しんでいる自分、
友と酒を飲んでいる自分、読書や思索をしている自分、神々に祈りを捧げている自分など自分はじつに多彩である。自分は多くの自分(これを分人と呼ぶ)の集合体である。一つの分人がうまく行かなくても、別の分人が活躍することもある。すべての分人で満足する業績を挙げることは不可能に近い。
 そんな個人の構造が理解できるだけで、心の負担がずいぶん軽減されるにちがいない。

 人生は深い。単純ではない。自分を今一度見つめ直そう。

(2017年5月25日、寺岡伸章)
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デッサン力

 昨夜、自分の写真を元にF6のスケッチブックに自画像を描き、今日美術クラブのメンバーに披露したら、歓声が上がった。本人に似ている、よく描けているという評価だった。家内は似ていないという判断だったので、世間のお世辞というのも考えられるので、それは割り引いて考えなければならない。
 デッサンは中学生のとき以来45年ぶりである(誰も信じてくれない)が、基本的な描き方も分からず、見よう見まねで描いたにすぎない。鉛筆の持ち方の基本もできていないし、ましてや影と陰の描き方の区別も分からない。それでも、対象物をよく観察し、細かい陰影や線が見えないものかと注意し、発見しては書き込んでいった。それに加えて、全体の構成には一応気を配った。頭頂、眉毛、目、鼻、口、顎の割合が崩れていれば、現実の顔とかけ離れてしまう。世間には数十億人の顔がある。少しのずれで、別人の顔になってしまう危険性が付きまとう。どうにかこうにか、自分と似た肖像画が浮かんできたときはホッとした。苦労して描いても別人の顔になってしまうと、やる気を喪失してしまう。
 余裕があれば、ハンサム顔に描くのだが、どう描けばそうなるのかさっぱり分からない。目の大きさを実物より大きくすれば、いい男に見えるのかさえよく判断できない。パリや上野で見かける画家は商売上、美女やハンサムの顔に描くのは容易に想像できるが、そのような技量があるわけではない。それにもかかわらず、一定の好評を得たのは正直嬉しい。あらゆるものから自由になり、想像性を発揮する人生を追い求める人生を選択していく上で、絵画という舞台を発見したのである。手ごたえを感じた。先生の一人がそれまでA5版のスケッチブックに描いていたのをF6かまたはF8の大きな空間で伸び伸び描けというアドバイスを素直に受け入れた。また、まだ初心者だからみんなの前で作品を発表するのは恥ずかしいと固辞していたのを熱心に説得してくれたのにも従った。自分に見えない視点でわたしのことを考えてくれる人も世の中にはいるものだ。結果として功を奏したことになった。
 それにしても、自分には絵の才能があるのだろうか。45年という歳月はその才能を枯渇させなかったのだろうか。それとも初心者の幸運だったのだろうか。ちょうどゴルフの初心者がホールインワンを達成するように。じぶんを客観的に見つめてもあまり意味がないかもしれない。好きな絵を好きなだけ描き切る。それ以外に上達する道もないし、才能を開花させることもできない。理屈を並べても、自転車に乗れるようにもならないし、泳げるようにもなれない。

 教室の二人の先生による講評が終わると、スケッチブックを取りに行き、席に戻った。残された時間は各自思い思いに絵を描き、先生や他の生徒のアドバイスを受けつつ、作品作りに励むことになる。今日は、エンドウ豆とビワの房と柑橘類を持ち込み、デッサンすることにしていた。エンドウ豆をビワは隣の畑で摂れたばかりのものをお裾分けしてもらったのである。善は急げ。新鮮ないのちを描こうと決めた。描き始めてしばらくすると、ベテランと思われる生徒が近寄って来て、自画像は難しいがよくぞ挑戦したと褒めてきた。その男性は坂本龍馬と思しき男性の肖像画を手にしていて見せてくれた。上手い。わたしなんかよりはるかに上手い。羞恥心が起こってくる。こんなに美しく描く技量があるのだから、自画像を描けば、面白いのにと思ったが、口にはしなかった。その男性は自画像が難しいから描かないというが、それは的を得ていると思った。自分を知ることは難しい。ましてや、自分の顔を描くということは自分の内面を曝け出すことにもつながり、リスクが伴う。自分と正面から向き合わなければ描けない。場合によっては自分の本質を抉らなければならない。これはけっこう辛い。
 ゴッホやセザンヌは自画像に挑戦した。自分をうまく捉えずして、絵の飛躍はないと思っていたのではないのか。似てる、似ていないという表面的なことではない。人格や信念や生命力を表現することが絵画の手段なのだ。静物画でさえ、それの存在の意義をここに立ち上がらせることが画家の任務なのだ。わたしは少なくともそう思う。
 その男性は絵は上手いが、自分の壁を打ち破ろうとする機会から逃げてきているのではないか。ブレークスルーには自己との戦いが必要である。勇気を奮い起し、難しいことから目を背けず挑戦しなければ楽しい明日は来ない。そんなことは男性に話さない。わたしは自分に納得させたのである。
 自画像は時折描いていきたい。自分がどのような人間なのかを自分の絵筆で明らかにしていきたい。絵画は形や色彩を再現することではない。その人物の内面や生物の存在を際立たせる行為に他ならない。
 挑戦は始まったばかりである。先は長い。急がず、だが着実に描いていきたいものだ。

(2017年5月22日、寺岡伸章)
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絵は人の目を欺くこと

 デッサンを始めて数か月になるが、思うように描けないのがもどかしい。自分の絵が稚拙で想像性がないように思えてくる。それでも、また描きたくなる。対象は何でもよい。時計でも、財布でも、ワインのボトルでも、花きでも、写真の顔でもいいのだ。目に見えるものであれば、何でも構わない。うまくいくかどうかは別して、形を描くことにより、それに生命を吹き込めばいいだけの話だ。

 絵を描くときは集中し、細部を疎かにしないように努めるのだが、まだ技術が未熟なため鉛筆が思うように動いてくれない。花弁の曲線がどうも本物と違っている。消しゴムで消して、再度描いてもあまり似ていない。ストレスが溜まる。こうゆうことを繰り返していると、だんだん全体像が浮き上がってくる。そうすると、B3の鉛筆でもう一度全体の輪郭を描き、再び細部に戻っていく。輪郭を忠実に再現したり、今まで気が付かなかった陰影を探り出して、そこを強調する。自分にしか分からない発見で小躍りする。
 小休止だ。スケッチブックに目を近づけて観察すると、鉛筆の線が弱々しく、生きていないのに落胆する。なぜこうなのだろうか。経験が不足しているためで、繰り返し描くことで上達するものだろうか。
 今度は少し離れたところから見てみる。近くで見えた絵とは異なる表情を見せてくれる。意外にいいじゃないかと嬉しくなることがある。昨夜は海に浮かぶ帆船を描いたが、海面が本物のように感じられる。近くでは死んでいたのだが、遠くでは海が生き返っている。なぜこのようなことが起こるのだろうか。わたしの技量が低いのは前提として認めるのだが、作者が描いた絵は観察者によって再構築されるような気がする。画家は必死になって描き込むだけだ。ところが、観察者の脳裏には今まで経験した海の情景が詰まっていて、それを刺激し思い起こさせるのではないのか。絵はその触媒に過ぎない。その人の海への憧れが強いほどそこに描かれた絵は生き生きしてくる。まさに、絵を鑑賞するということは作者と観察者の共同作業のような気がする。自分の絵は自分で考えるほど下手ではないのではないか。もちろん自惚れてはいけないが、そのような観点も存在するということも忘れてはいけないように思う。
 観察者と被観察者の関係は先端科学の世界でも解明されていない、物事の真理はそれらの関係性で決定されるのだろう。そう考えると、作者がやらねばならないことはただ一つ。魂を込めて絵を描くことだ。生命が宿れば、絵は永遠に生き続け、観察者を感動させるのではないか。希望を持って立ち向かうしかない。

(2017年5月20日、寺岡伸章)
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