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絵画

自画像

 自分を見詰めるのは辛い。現代の生活は忙しいため、1日のうちで何をやるかに関心が行き、自分の心や精神状態を詳細に観察することはあまりやらない。おしゃれするとき以外は、自分の顔さえ観賞の対象にならない。どのような顔色なのか、内面がどのように表情に現れているかは快適に生きる上で非常に重要なはずだが、そこまで意識して顔を覗くことはあまりない。せいぜい、老けたな、疲れているなと思うくらいだ。心の有り様がその人の幸福度を決定するはずなのだが、幸福度の尺度は定量化されたお金や地位に還元され、顧みられることはない。もっと自分について考える時間帯が多くてもよかろう。

 絵画を描き始めると、風景画や静物画に着手するのが普通なのだが、自画像に面と向かう初心者はあまりいない。自分の顔を描くのは恥ずかしいからなのだが、それは日ごろ慣れていないことをしたくないという気持ちが浮かぶからだろう。さらに言えば、自画像は知らず知らず自分の知らない自分が描き出されるリスクもある。素っ裸で公衆の面前に立ちたくないというのと同じで、内面を曝したくないという気持ちが働く。プライバシーとして隠したがる。だから、自画像は避けられる嫌いがある。でも、自画像に挑戦し続けてきた画家は少なくない。自分をうまく描けなくして、風景や事物を描けるはずはないという思いがあるのではなかろうか。

 自画像と言えば、ゴッホを思い出すが、彼はじつに多くの自画像を描いている。本人は悪戦苦闘して、様々な自画像に挑戦したのかもしれないが、発想を変えてみると、それらのどの絵が本人を忠実に表現しているのだろうか。ゴッホは自分の真実の姿を描いたものだけを追及したのだろうか。それは違うような気がする。
 自分自身はじつに多面的なのだ。昨日の自分と今日の自分は異なる。対人関係でも誰に接しているかで、気持ちや態度がずいぶん違ってくる。それは自分を飾っているからではなく、自分の中の自分を演じているにすぎない。世間で演じられた自分もまた真実の断面なのである。
 そうなのだ、自分は唯一絶対の存在ではなく、つねに揺らいでいる。科学の先端を紹介するまでもなく、揺らぎは人間だけではなく、生物の本質でもある。生物界は多様であるように、人間個人もまた多様であるのだ。個人は固定された存在ではなく、ダイナミックにかつ自在に変貌する存在であるのだ。それは個人に対して分人とも呼べるかもしれない。

 現代社会はストレスが多く、精神の疾患で悩む人は少なくない。人々は最大のパフォーマンスを上げることを常に求められ、その結果によって評価されている。動機や心の状態に関わらず、外に現れた業績で個人の価値が定められる傾向にある。外面と心の間で人は悩み、バランスが崩れると病気になる。自分はダメな奴だと責め続ける人もいる。
 本当はそんなことはない。会社の自分は一人の自分でしかないし、家族の中の自分、運動を楽しんでいる自分、
友と酒を飲んでいる自分、読書や思索をしている自分、神々に祈りを捧げている自分など自分はじつに多彩である。自分は多くの自分(これを分人と呼ぶ)の集合体である。一つの分人がうまく行かなくても、別の分人が活躍することもある。すべての分人で満足する業績を挙げることは不可能に近い。
 そんな個人の構造が理解できるだけで、心の負担がずいぶん軽減されるにちがいない。

 人生は深い。単純ではない。自分を今一度見つめ直そう。

(2017年5月25日、寺岡伸章)
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デッサン力

 昨夜、自分の写真を元にF6のスケッチブックに自画像を描き、今日美術クラブのメンバーに披露したら、歓声が上がった。本人に似ている、よく描けているという評価だった。家内は似ていないという判断だったので、世間のお世辞というのも考えられるので、それは割り引いて考えなければならない。
 デッサンは中学生のとき以来45年ぶりである(誰も信じてくれない)が、基本的な描き方も分からず、見よう見まねで描いたにすぎない。鉛筆の持ち方の基本もできていないし、ましてや影と陰の描き方の区別も分からない。それでも、対象物をよく観察し、細かい陰影や線が見えないものかと注意し、発見しては書き込んでいった。それに加えて、全体の構成には一応気を配った。頭頂、眉毛、目、鼻、口、顎の割合が崩れていれば、現実の顔とかけ離れてしまう。世間には数十億人の顔がある。少しのずれで、別人の顔になってしまう危険性が付きまとう。どうにかこうにか、自分と似た肖像画が浮かんできたときはホッとした。苦労して描いても別人の顔になってしまうと、やる気を喪失してしまう。
 余裕があれば、ハンサム顔に描くのだが、どう描けばそうなるのかさっぱり分からない。目の大きさを実物より大きくすれば、いい男に見えるのかさえよく判断できない。パリや上野で見かける画家は商売上、美女やハンサムの顔に描くのは容易に想像できるが、そのような技量があるわけではない。それにもかかわらず、一定の好評を得たのは正直嬉しい。あらゆるものから自由になり、想像性を発揮する人生を追い求める人生を選択していく上で、絵画という舞台を発見したのである。手ごたえを感じた。先生の一人がそれまでA5版のスケッチブックに描いていたのをF6かまたはF8の大きな空間で伸び伸び描けというアドバイスを素直に受け入れた。また、まだ初心者だからみんなの前で作品を発表するのは恥ずかしいと固辞していたのを熱心に説得してくれたのにも従った。自分に見えない視点でわたしのことを考えてくれる人も世の中にはいるものだ。結果として功を奏したことになった。
 それにしても、自分には絵の才能があるのだろうか。45年という歳月はその才能を枯渇させなかったのだろうか。それとも初心者の幸運だったのだろうか。ちょうどゴルフの初心者がホールインワンを達成するように。じぶんを客観的に見つめてもあまり意味がないかもしれない。好きな絵を好きなだけ描き切る。それ以外に上達する道もないし、才能を開花させることもできない。理屈を並べても、自転車に乗れるようにもならないし、泳げるようにもなれない。

 教室の二人の先生による講評が終わると、スケッチブックを取りに行き、席に戻った。残された時間は各自思い思いに絵を描き、先生や他の生徒のアドバイスを受けつつ、作品作りに励むことになる。今日は、エンドウ豆とビワの房と柑橘類を持ち込み、デッサンすることにしていた。エンドウ豆をビワは隣の畑で摂れたばかりのものをお裾分けしてもらったのである。善は急げ。新鮮ないのちを描こうと決めた。描き始めてしばらくすると、ベテランと思われる生徒が近寄って来て、自画像は難しいがよくぞ挑戦したと褒めてきた。その男性は坂本龍馬と思しき男性の肖像画を手にしていて見せてくれた。上手い。わたしなんかよりはるかに上手い。羞恥心が起こってくる。こんなに美しく描く技量があるのだから、自画像を描けば、面白いのにと思ったが、口にはしなかった。その男性は自画像が難しいから描かないというが、それは的を得ていると思った。自分を知ることは難しい。ましてや、自分の顔を描くということは自分の内面を曝け出すことにもつながり、リスクが伴う。自分と正面から向き合わなければ描けない。場合によっては自分の本質を抉らなければならない。これはけっこう辛い。
 ゴッホやセザンヌは自画像に挑戦した。自分をうまく捉えずして、絵の飛躍はないと思っていたのではないのか。似てる、似ていないという表面的なことではない。人格や信念や生命力を表現することが絵画の手段なのだ。静物画でさえ、それの存在の意義をここに立ち上がらせることが画家の任務なのだ。わたしは少なくともそう思う。
 その男性は絵は上手いが、自分の壁を打ち破ろうとする機会から逃げてきているのではないか。ブレークスルーには自己との戦いが必要である。勇気を奮い起し、難しいことから目を背けず挑戦しなければ楽しい明日は来ない。そんなことは男性に話さない。わたしは自分に納得させたのである。
 自画像は時折描いていきたい。自分がどのような人間なのかを自分の絵筆で明らかにしていきたい。絵画は形や色彩を再現することではない。その人物の内面や生物の存在を際立たせる行為に他ならない。
 挑戦は始まったばかりである。先は長い。急がず、だが着実に描いていきたいものだ。

(2017年5月22日、寺岡伸章)
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絵は人の目を欺くこと

 デッサンを始めて数か月になるが、思うように描けないのがもどかしい。自分の絵が稚拙で想像性がないように思えてくる。それでも、また描きたくなる。対象は何でもよい。時計でも、財布でも、ワインのボトルでも、花きでも、写真の顔でもいいのだ。目に見えるものであれば、何でも構わない。うまくいくかどうかは別して、形を描くことにより、それに生命を吹き込めばいいだけの話だ。

 絵を描くときは集中し、細部を疎かにしないように努めるのだが、まだ技術が未熟なため鉛筆が思うように動いてくれない。花弁の曲線がどうも本物と違っている。消しゴムで消して、再度描いてもあまり似ていない。ストレスが溜まる。こうゆうことを繰り返していると、だんだん全体像が浮き上がってくる。そうすると、B3の鉛筆でもう一度全体の輪郭を描き、再び細部に戻っていく。輪郭を忠実に再現したり、今まで気が付かなかった陰影を探り出して、そこを強調する。自分にしか分からない発見で小躍りする。
 小休止だ。スケッチブックに目を近づけて観察すると、鉛筆の線が弱々しく、生きていないのに落胆する。なぜこうなのだろうか。経験が不足しているためで、繰り返し描くことで上達するものだろうか。
 今度は少し離れたところから見てみる。近くで見えた絵とは異なる表情を見せてくれる。意外にいいじゃないかと嬉しくなることがある。昨夜は海に浮かぶ帆船を描いたが、海面が本物のように感じられる。近くでは死んでいたのだが、遠くでは海が生き返っている。なぜこのようなことが起こるのだろうか。わたしの技量が低いのは前提として認めるのだが、作者が描いた絵は観察者によって再構築されるような気がする。画家は必死になって描き込むだけだ。ところが、観察者の脳裏には今まで経験した海の情景が詰まっていて、それを刺激し思い起こさせるのではないのか。絵はその触媒に過ぎない。その人の海への憧れが強いほどそこに描かれた絵は生き生きしてくる。まさに、絵を鑑賞するということは作者と観察者の共同作業のような気がする。自分の絵は自分で考えるほど下手ではないのではないか。もちろん自惚れてはいけないが、そのような観点も存在するということも忘れてはいけないように思う。
 観察者と被観察者の関係は先端科学の世界でも解明されていない、物事の真理はそれらの関係性で決定されるのだろう。そう考えると、作者がやらねばならないことはただ一つ。魂を込めて絵を描くことだ。生命が宿れば、絵は永遠に生き続け、観察者を感動させるのではないか。希望を持って立ち向かうしかない。

(2017年5月20日、寺岡伸章)
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神は細部に宿る

 わたしはものを書いたり、絵を描いたりすることが好きだ。魂の解放の手段であり、生きる喜びを感じる瞬間であるからだ。でも、楽しめる段階に至るにはある程度の技量が必要なことは避けられない。自らのスタイルが身に着くまでは努力を重ねる必要がある。研鑽の末、己にしかできない表現力のステージに登れば、それを永遠に伸ばしていけばよい。周囲の評価は別としても、そこまで行けば、才能を発揮できるし、唯一無二の自己の価値を発見できるのである。

 美術館に行って、歴史に残る作品に触れていると、作者の並みならない生命力を感じる。命の源は想像性である。よくもまあ、このような表現力を考え付いたものだと感心する。絵画でも、陶器でも、水墨画でも、彫刻でも同じように感じる。天才たちの苦悩とそこを突き抜けて新しいものを得た喜びが表現されている。絵画でいえば、そこに絵具を発見することはない。そこには作者の燃える魂や精神しか見いだせない。
 でも、素人の絵は違う。キャンバスの上に絵具を発見するのが落ちだ。せいぜい、うまいか下手かの評価があるだけだ。それはすぐに忘れられる矮小な評判でしかない。

 天才と凡庸を分け隔てるものは何なのだろうか。才能か、いやそれは重要であるが、本質ではない。訴える力だ。何を表現したいのかという強い意志があるかどうかだ。天才たちは全身全霊をかけて絵画に打ち込んでいる。食事のような矮小なことには関心を示さない。自分の持つ創造力の発揮こそがすべてである。
 それに比べると、素人は絵画を楽しんでいる。絵筆を動かし、何かが表現できれば、そこに満足し、安住してしまう。困難なことへの挑戦はない。自分の壁を打ち破ろうとするエネルギーも感じられない。昨年よりもうまくなったと自分を慰める。楽で気安い作業だ。絵画は趣味であり、そこは人生を賭ける場ではないため自ずとそうなってしまう。

 天才たちは幸福か不幸かは分からないが、人間の限界を突破し、可能性を模索している。産む苦しみと戦っている。自己の命をガリガリ削りながらも、新しい生命を生み出そうと格闘している。自己の存在理由を賭けているのでそれは壮絶な戦いである。彼らは隅々まで手を抜かない。空間でさえ意味を持たせている。乱雑に描かれているように見えても、そこには強烈な意思が込められている。キャンバスすべてが戦場である。作者の燃えるような想像性はどこの局面でも発揮されなければならない。精神の弛緩は敗北を意味する。細部を疎かにしてはならない。
 その結果、到達したステージが新しい表現方法であり、人間解放の瞬間ではなかろうか。芸術は美しい。同時に、人間も美しく燦然と輝くのだ。

(2017年5月19日、寺岡伸章)
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女性は美しく逞しい

 上京し、美術館と博物館めぐりを堪能してきた。「オセローのナビ展」(三菱一号館美術館)、「茶の湯」(東京国立博物館)、「シャセリオー展」(国立西洋美術館)、「スケーエン-デンマークの芸術家村」(国立西洋美術館)、「ミュシャ展-スラヴ叙事詩」(国立新美術館)、「草間彌生の永遠の魂」(国立新美術館)、「大英自然誌博物館展」(国立科学博物館)。天才たちの才気に圧倒され、自分が如何に矮小で何も知らない存在であるかを痛感させられた。でも、これらの体験を小説や絵画に生かしていきたいものである。
 なかでも、「草間彌生の永遠の魂」はチケット購入に1時間、入場に40分も時間を消費した上で、創造性溢れる草間彌生ワールドのエネルギーに打ちのめされ、会場を後にするころにはフラフラな状態だった。上野駅近くのホテルに戻って2時間半ものシエスタを貪り、夜の席に着いたのは40分の遅刻という有様だった。

 人間は何のために生きているのだろうかという一つの回答を強烈に感じた4日間だった。人間はもっと自由で想像的であらねばならぬ。けっして会社やお金の奴隷になってはならぬ。大自然と戯れ、自らの美的表現能力を最大限発揮するとき、人間は神に近づき、魂を浄化できるのである。至福の瞬間に、人生の賛歌が聴こえる。人生は素晴らしい。生きることは奇蹟の体験である。

 それにしても、どこに行っても女性は美しく、好奇心に満ち溢れていた。鑑賞者の8割は女性だったように思う。男性が会社で想像力を摩耗させられ、凡庸になっているとき、女性は想像力を蓄え、人間力を身に付けようとしている。芸術の神・ミューゼに変身しようと企んでいる。カネを稼ぐという近視眼的なことに励んでいる男たちがミューゼに勝てるはずがないではないか。
 男は形式的に女よりも優位にあるのかもしれないが、その姿は完全に形骸化している。女は美しく賢く、かつ逞しい。男は子どものまま成長できないでいる。会社にエネルギーを吸い取られ捨てられた男は世間から孤立し、自宅に引き籠っている。その間、女たちは街に出て美味しい食事をし、楽しいおしゃべりをし、美術館で感性を磨き、デパートでショッピングを楽しみ、防腐剤入りの食べ物を避け、戦争反対のデモに参加し、ときには郊外に出て自然の中で自分を解放する。女は素晴らしい存在だ。この世はすでに女性に征服されている。
 男は朽ち果てるしかないのか。再生する手段はただ一つ。女のするように振舞え。女の愛し、熱狂する場所に行け。そこは生命エネルギーと想像性で溢れているのだ。

(2017年5月19日、寺岡伸章)
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生活が第一

 定年を迎え仕事を辞めると、暇になると思っていたが、そうではないことが分かってきた。毎日の生活を送るうえで、結構忙しいのだ。
 昨日は電車に乗って、熊本市のデパートまで買い物に行った。ゴルフウェアのパンツ、半そでシャツ、アンダーウェアを買ったのだが、最終的な選択に行き着くまでどれが似合うかと妻と話し合いが続く。どれもこれも欲しいのだが、それなりの色とデザインのものに落ち着いた。
 今まで試着は面倒と思っていたが、やってみると面白い。ショッピングも楽しめるようになれそうだ。生活を充実させるための重要な要素であるにちがいない。仕事で何かを生み出すこととは異なる世界がそこにはある。仕事が価値があり、ショッピングは単なる消費にすぎないとは思えなくなってきた。それにしても、購入した3点の商品の価格はゴルフ会員権よりも高価であるのは複雑な気分だった。ゴルフは大衆のスポーツになったけれど、ファッション業界は新しいデザインと素材を創造し続けているということなのだろうか。

 わたしの買い物が終わると、妻の服を買うべく、婦人服売り場に向かった。妻のショッピングはまずフロワァー全体を一周して見渡し、その後気になったお店に入って自分のお気に入りのものを探し出そうというやり方だ。わたしも後ろから付いて歩き回ったのだが、婦人服は紳士服と違ってデザインも色彩もじつに豊富である。このような素敵な服を着た女性が街に溢れていたら、どんなに世の中は楽しいことだろうかと思った。一つ一つを念入りに見ると、デザイナーの工夫が偲ばれる。美的感覚に優れていないと気を引くものが作れない。わたしは最近絵画を描くようになったためか、構図や色彩に目が行くようになった。偏見があるかもしれないが、自分や他人の着る服に関心がないようでは、絵画は上達しないのではないかとさえ思う。
 美術クラブでも、美しい絵を描ける女性は美しい人が多いように感じる。美の追求が人生のワイフワークになっているのだろう。自分も化粧をして合致した服をまとい美しい女性でありたいし、自分の内面の感情もキャンバスに美しく描き出したいという一心なのだ。美こそ人生。なんと素晴らしいことなのだろうか。

 ショッピングを終えて、電車に乗って八代に帰ってきると、雨が降っていたが、フィットネスクラブに出かけることにした。最近は身体を柔らかくするストレッチと筋力増強の筋トレが面白い。まだ、クラブに通うようになって1か月足らずだが、少しだけ硬い身体が曲がるようになったと感じる。筋トレも負荷重量が増えて行くのは面白い。7つの筋トレマシーンで10回づつ、3セットやっている。楽と感じるマシーンは2.5キロづつ荷重を増やしていっている。限界はどこまで先にあるのだろうかと楽しみにしている。身体全体が逞しい筋肉で武装されていくような心地よい気分になる。でも、電車に乗ると席を譲ってもらうとき、複雑な気持ちになる。わたしは年寄りなのだろうか、それとも100キロを歩く超人なのだろうかと。

 ひと汗流して、帰宅すると、知り合いが新車の見積もりを持ってやってきた。わたしは運転しないが、運転手役の妻の気に入った車が決まった。トヨタのハイブリッド車のアクアにした。何回も販売店に足を運び試乗した後に、購買すべき車種が決まったのである。これで生活基盤がまた一つできたと言える。行動の範囲と機会がグンと増えることになるだろう。

 生活が第一である、と謳った政党があったが、まさにその通りである。仕事は生活に必要なお金を稼ぐ場でしかない。なるだけ多くのお金を楽して稼ぎたいのが人情であるが、どうせ拘束されるのであれば、自分の好みと能力に合ったものがいいに決まっている。でも、それが分からないのが課題である。多くの友達が定年退職のときに自分はこの仕事に合っていなかったので、ずいぶん苦労したとこぼしている。本当にそうなのかどうかは検証してみないと分からないが、人生は苦労はよく覚えているということなのかもしれない。
 他人と比較してはいけない。自分の人生は自分で切り開くしかないのだ。苦労も楽しみに変えていく柔軟な発想があるかどうかが多くのことを決するような気がする。
 今日一日はとても長かったが、でも充実していた。夢を抱いて前に進もう。

(2017年5月10日、寺岡伸章)
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