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宗教

中世の復活

後輩たちへ

 みなさん、如何お過ごしでしょうか。私の方は文科省を定年退職して2か月が過ぎようとしていますが、郷里の八代で元気で過ごしています。現役時代との最大の違いは、「毎日が日曜日」のためすべての予定を自分で決めなければならずこの状態から解放される「休日がない」のが最大の苦痛です。考えようによっては、なんとも贅沢な悩みですが。

 田舎暮らしの良さは、「みんな人が良い」ことです。こんなに親切で、気を遣っていただき、大変心地よい生活を送っています。都会のようにガリガリ生きている人をあまり見かけません。視点を変えれば、挑戦や競争が少ないため、人々は内向き志向で、田舎は発展しにくいということかも知れませんが、所得の低さに目をつぶってしまえば、田舎暮らしは捨てたものではありません。若い人の意識も都会志向から変わりつつあるようにも見受けられます。

 近況を具体的に報告します。
 早朝に起きて、自然豊かな散歩道を1時間の歩いた後、NHKの講座でスペイン語と英語を聴き、朝食を済ませます。午前中は、最近始めたデッサンに取り組んだり、読書をしたり、ブログを書いたりと、主に頭を使うことに専念します。デッサンの方は、地域コミュニティセンターの美術クラブに通っていますが、自画像を描いて披露したら、拍手やお褒めの言葉をいただいて、いい気分に浸っています。グッド・スタートとなりました。
 午後はフィットネスクラブで、硬くなった身体をほぐすストレッチ、基礎体力を向上させる筋トレ、リズム感を取り戻すエアロビクス、それに気分転換の水泳を楽しんでいます。帰宅後は至福のシエスタを享受。
 夕食後はテレビを観たりして、ゆっくり過ごす時間帯ですが、時には読書やデッサンに時間を割くこともあります。就寝は午後11時まで。外での会食が激減したため、お小遣いはほとんど減りません。

 趣味の長距離ウォークの方は4月中旬の福岡県糸島三都110キロウォーキング大会(1500人中87位)、5月ゴールデンウォークの長崎県佐世保・島原105キロウォーキング大会(900人中92位)に出場しまずまずの成績を収めました。でも、筋トレとフォームの改善をしないとこれ以上の向上はないと痛感しました。

 まったく初めての作業にも挑戦しています。庭木の剪定は芸術作品の創造と思って楽しみましたが、脚立の上の作業は少々怖かったです。小さい畑にはアシタバの苗を植えましたので、今秋の収穫が楽しみです。庭先に撒いたゴーヤと朝顔の種がどこまで成長するか期待しています。先日は、庭の梅木から採取した青梅を使って、梅酒作りに励みました。地酒は美味しいでしょうね。蝶々、蜂、トカゲ、小鳥が庭で遊んでいるのを眺めていると、自然というのは目の前にあるものなんだと実感させられます。眺めていても飽きませんね。

 今日土曜日はゴルフのラウンドに行き、明日は文芸雑誌の仲間の合評会に出席します。作品に対して色々な意見や感想が飛び出し、大変勉強になりますので、嬉しいです。
 いよいよ6月2日から北スペインの巡礼の旅に家内と出かけるため、最終準備の段階に入りました。800キロの世界遺産の道のりを楽しんで来ようと思っています。北スペインの田舎の風景、ワインと料理、世界の人々との出会い、パワースポットやスピリチュアリティの経験も楽しみです。大都市ではテロが発生したいますが、田舎はターゲットにならないでしょう。もし仮に、バチカン、エルサレムに次ぐ第三のカソリックの聖地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂(聖ヤコブが祀られている)が爆破されることになれば、宗教戦争にまで発展します。ISはそこまではやらないと思います。
 人間がお金の奴隷になり、尊厳を失ってしまっている今、神々を信じていた中世の時代の人々に思いを馳せるのは悪くはないと思っています。物質的に豊かになった近代は人間を貶めているように思えてしかたありません。

 役人としての仕事も楽しかったのですが、世の中にはまったく違った楽しいことも沢山あります。それらを発掘して自ら享受していきたいですね。
 スペイン人の口癖を書いて、筆をおきます。
La vida es maravillosa! 人生は素晴らしい!
 世界は楽しいことで満たされていますよ。みなさんも人生をエンジョイして下さい。

(2017年5月27日、寺岡伸章)
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ジャイナ教

 メディアの関心事は高齢者の問題で溢れているように思えてきた。徘徊による行方不明が年間1万件以上もあることや、身寄りのない孤独死の事件が取り上げられている。人生の終わりは家族に看取られながら往生するのが最高の死に方という暗黙があるようだ。最後が良ければすべて良しというのは一つの理屈として理解できないわけでないが、何事も一歩踏み込んで考えようとするわたしにとって少し違和感を覚えてしまう。

 死に方なんて本人が選択できるわけではないし、ましてや最期が安らかだからと言ってその人の人生がすべて良かったとは限らないし、本人の人格や価値観や実績とは関係がない。むしろ、その人の数十年にわたる生き方そのものこそ問うべきであると思う。最期が幸せかどうかを問題視するのは、むしろ遺族の側が気持ちの上で「〇〇の人生は良かった」と割り切りたいからではなかろうか。自分の両親は幸せな人生を送ることができ、自分も最後の親孝行を務めることができたとみずから納得したいのではなかろうか。人生最期を気にするのは本人ではなく、遺された人々の発想ではなかろうか。

 徘徊老人が行方不明になり、山中で餓死したり、用水路に嵌って水死したりしたとしても、それを不幸な出来事として強調するのはどうかと思う。自宅で静かに孤独死しても、病院で誰にも看取られずに逝ったとしても、それは本人が選択したことではない。それらのイベントを冷静に受け入れる勇気が我々に求められているような気がしてならない。
 死はテレビドラマのように遺族に迎えられるようにはなっていない。死は急いでやって来て、瞬く間に去っていく。それが人生の最期であると認識し、その前の膨大な日々という時間をどのように生きたのかを問うべきだと思う。

 インドに仏教系のジャイナ教という一派がある。これは生き物を殺すことを厳しく戒める宗派である。その宗派の信者は、ある年齢を超えると、財産をすべて処分し、出家するように促される。世間では、お経を唱えて信仰を深めながら、托鉢で食べ物を確保し生を支えていく。病気になったり、老化が原因で路傍に倒れるまでそのような生活が続く。どこで死のうがそれが問題でなく、人生の意味を悟ることができるかどうかが重要なのである。心の状態や信仰が重要問題なのだ。そもそも仏教に限らず、あらゆる宗教において、死ではなく生が重要であったはずなのだが、現代ではそれが逆転し、生きているときの心の平安は個人の問題としてスポットライトが当てられず、死の形だけが重要視されるようになった。まさに、生死の形式化や形骸化が進んでいると思う。
 本人の心の叫びは無視され、肉体の有り様ばかりがクローズアップされてきている。物質文明が極度に発展したためか、精神文化がひどく低い位置に押し込まれてしまっている。これは人間精神の退化である。唯物論がはびこると、人間精神が退化する。モノが溢れているが、心に焦点を当てると、この世は地獄である。

 どこでどのような死に方をするかは重要事項ではない。生きているその時間帯に如何に実感を持って生の有難さを感じることができるかどうかが問題なのである。
 肉体よりも精神や心に関心を寄せるべきである。実存主義を再び。

(2017年4月28日、寺岡伸章)
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庭木の剪定

 母が亡くなって数年間、実家は空き家であったため、70坪程度の庭の樹木は茫々と茂っている。野性味があって逞しいとも言えるが、なんだか品がないようにも見えてしまう。やはり、少しでも人間の手をかけて住人の品格に相当する庭木にはしたいものである。
 庭師に依頼するということも考えたが、無収入の身でもあり、時間もあることからここは新たに経験をしてみることにした。やってみると意外に面白いかもしれない。

 さっそく剪定ハサミとノコギリを新調し、勝手に天に向かって伸びていた庭木の手入れをすることにした。脚立は小屋に収納されていた古いものを使用した。慣れない作業で落ちてしまうと、大けがをするので、無理をして手を伸ばさないように注意した。高いところは散髪されていない。
 初日は30分、翌日は1時間と増やしていったが、さしあたり作業を終えるのに5日間もかかってしまった。でも、面白かった。来年いた今秋もやってみようと思う。大げさに言えば、芸術作品を作っているようなもので、単純に枝葉が短くなったというのではなく、各々の木が散髪をしてスッキリした紳士淑女になったのではないかとも思えないこともない。わたしの腕は超初心者なのだから、刈り損ないが多いのだが、それでも超自然な頭髪よりもましなような気がする。

 ノコギリも剪定ハサミも新しいせいか、切れ味は鋭い。容易に刈れるので、面白くなり、つい刈り過ぎはしないかと気になったが、プロの庭師の仕事を思い起こしてみると、徹底して刈り込んでいたように思える。生前の母は刈りすぎでみっともないと愚痴をこぼしていたのを思い出す。そんなことを思い出しながら、ノコギリとハサミはぐいぐいと仕事をしていく。予想以上に刈り込みのスピードが速い。なんだか子どもが彫刻刀を与えられて、木版を熱心に彫っているような気分になった。
 枝葉が削ぎ落されたので、視野も開けてきた。木々が空間を争うように占拠していたが、勢力範囲が決められて落ち着きを取り戻したようだ。おそらく自己満足だろうが、庭も生き返ったように感じられる。蝶にも気に入られたのか、どこからか数匹が飛んできて、庭で羽を休めている。疲れもあまり感じずに楽しい初体験だった。

 剪定作業の3日目が過ぎたころ、親戚の伯母さんが急いでやってきて、「家屋の南側に植えられた樹木は切るな」とわたしに注意した。家屋や庭木に手を入れるべき季節は決められているため、それに背くと、神々の怒りを買うというのだ。5月は北側と東側の庭木に手を入れ、南側は9月に回せと真顔で忠告された。祟りは恐ろしいとまで言われた。親父が56歳の時急死したのは、家の改築が終わってからすぐだった。やるべき時期を間違えたために、悪い結果を招いたのだと諭された。その因果関係を科学的に探求することはできないが、無理に実行するよりも、ここは話を受け入れた方がよいと思った。南側の樹木はほとんど終わっていたが、残りの作業は9月以降に回すことにした。土地の神様を鎮めるため、塩を庭に撒いて清めた。
 わたしの剪定作業に気が付いた、隣の畑で農作業をしていた農家の方が獲れたばかりの玉ねぎをくれた。急がずにぼちぼちやって下さいと言われた。その言葉の意味は身に沁みてよく分かる。何事にもリズムがあるのだ。必要以上に急いだりすると、怪我や病気など不測の事態を招くことになりやすい。大事なことは急ぐべからず。自然のリズムに合わせて動けばいいのだ。

 こうやって、庭の剪定作業は無事に終わった。仕事や義務としてではなく、庭をいじりつつ自然と一体になろうという試みはスタートしたと思う。田舎生活の魅力は自然や神々や人々との共存である。新しい生活はうまくいっている。今後の展開が楽しみである。

(2017年4月25日、寺岡伸章)
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悪い奴ら

 悪とは何だろう。ウソを言ったり、表面ばかり取り繕う人とはあまり付き合いたくない。でも、そのような人は悪い人かもしれないが、真の悪とは言い難い。こちらが注意すれば、被害を最小限に食い止めることができるので、たいした悪ではない。

 では、本物の悪とはどのようなものなのだろうか。振り込め詐欺はどうか。これは知能犯だが、これも冷静に対処できれば、問題が起こることはない。騙される方の防御に問題がある場合があるので、極悪とは言えない。還付金があると言われて、ATMの前で相手の指示通りに操作するのは、還付金というエサ(欲)に釣られているからだ。つまらない欲を捨てれば、罠に嵌まる恐れはない。

 真の悪は悪の顔をしておらず、むしろ善のように見えるのではなかろうか。これは怖いし、騙しから逃れることは難しい。なぜならば、我々は常に善を為そうとしているためである。善を追っていくと、いつの間にか迷路に入り、知らないうちに悪に荷担していることがあるのではなかろうか。戦争を嫌悪し平和を叫ぶ人々によって却って戦争への道が整備されることがあるような気がする。あるいは、小さい悪を許容できないが故に、大きな悪を招き入れる場合があるのではないのか。つまり、どんなに善人ぶっていても、心の中には常に悪が浮かび出そうとしているからだ。ちょうど、体内でいつもがん細胞が発生しているが、免疫細胞がそれを叩いているため、がんが顕在化することは滅多にないのと似ている。免疫細胞はつねに正義の味方かと言うかと、それが正常細胞を過剰に攻撃し、病気を発生させてしまうことがある。善悪の区別も身体も深淵である。

 では、このような人は悪なのか善なのか。世の中は結局のところ、搾取する側とされる側に分けられており、この世を楽しく過ごすには前者の立場にいたほうがよい。このような発想は悪なのか、それともニュートラルであり、真実を語っているに過ぎないと考えるべきなのか。搾取する側は権力とお金を持ち、人々を支配したり自己の欲望を叶えようとする。支配は悪とは言い切れない。リーダーシップと言い換えれば、イメージが180度転換し善になる。権力は突然暴力的になる可能性があるから、恐ろしい。悪になることもある。お金はどうか。お金には罪はないが、お金持ちはそれを利用して、横柄に振る舞う場合があり、迷惑だ。このとき悪に転じる。

 これは未解決の問題だ。でも、社会の法令に抵触せず、権力を得たり、お金持ちになろうという行為は許される。社会はそれを認めている。人間の価値は所有する資産の額や社会的地位に比例すると考えている人は少なくない。すくなくとも資本主義という社会システムはそうなっている。拡大再生産が資本主義のエンジンだが、そこには悪が潜むと考えてもおかしくはない。人間の諸問題の原因はお金の不足にあること(例えば、貧窮や差別)を考えると、社会システムが正当化されても、それを信奉する人々は悪ではないのか。少なくとも悪の萌芽を孕んでいる。じつはこのような行為は発展のエンジンでもある。資本主義は発展をメカニズムを巧妙に取り入れているのだ。欲望という悪の萌芽が社会を進歩させるのだが、その小さい動機は社会の大きな歯車を回転させ、結果として悪を社会にもたらす可能性がある。少なくとも悪をゼロにすることはできない。

 我々の心の隅で悪が浮き沈みしているように、社会にも悪が蔓延っている。もちろん、善も健在だ。悪を退けて、善を行うと人々は軽々しく言うが、本当のところは極めて難しい。でもこれだけは確かに言えよう。人々の苦しみを少しでも軽減化するする行為はその時点においては絶対的に善であると。
 人間性を大切にすることは大事なことだが、その人間性には欲が潜む。欲がなければ、人間の物語は進展しないし、面白くもない。そう考えると、やはり、人間は人間的に生きようと思えば、悪なしには生きられない。善なる神がこの世を創造したとき、なぜ人間の心の中に悪やサタンも造ってしまったのかという命題は神学論争の一つだが、わたしには難しすぎて答えが分からない。

 人間は罪深き存在である。「善く生きる」ことがわたしの人生目標であるが、それは容易なことではない。

(2017年2月28日、寺岡伸章)
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正月三が日

 今年の元旦は近くの荒川の土手で初日の出を迎え、清々しいスタートだった。
 おせち料理は食べず、お雑煮を食するだけの簡単な食事となった。正直言って、おせち料理はあまり美味しく感じられないからだ。その代わり、朝食にはカンパチとブリの刺身、昼食は豚肉のステーキ、夕食は毛ガニ一匹をそれぞれ食べ、大満足の元旦になった。やはり好きなものを好きなだけ食べるに限る。

 2日は、東京駅6時30分発の鹿島神宮行きの高速バスに搭乗した。暗いうちからの始発であるためか、乗客は少なかった。バスの中からも日の出を拝むことができた。幸運だ。2時間の搭乗は、往復ともスペイン語の単語学習に充てた。まだ記憶力は健在のようだ。
 鹿島神宮は、茨城県南東部の北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座する。大国主の国譲りの際に活躍した武甕槌神(タケミカヅチ)を祭神とする由緒ある神社である。武道で篤く信仰される神社でもある。昨年大活躍した鹿島アントラーズのスタジアムまでは2.5キロの距離である。アントラーズに敬意を表した。
 鬱蒼と茂る鹿島の森の空気は美味しかった。神気を十分吸収させていただいたので、今年は攻めの姿勢で突っ走れそうである。思い出に残る初詣となった。

 3日は、5時間走だ。年末年始のランニングの総仕上げになる。午前6時20分に家を出て、荒川土手伝いに上流方面に走り、2時間30分後に折り返してくるコースだ。この日も日の出に向けて手を合わせた。富士山もくっきり見えた。この日の箱根駅伝の復路は大学生5人で5時間以上を走るが、わたしは一人で5時間を走るのだ。どうだ凄いだろうと心の中で思った。でも、ジョギングのペースだが。
 北風が吹いたためか、復路は往路よりもいいタイムで走り切りことができた。2月19日の故郷の熊本城(復興)マラソン大会で目標としている5時間切りには、もっとスピードを上げないといけない。残された時間は7週間を切っている。練習メニューの改善などやるべきことはたくさんある。
 帰宅後、風呂に入って、足を入念にマッサージした。疲労を取るのも重要な練習メニューのうちだ。バスタブで解放された気分に浸った。風呂上がりのビールも美味しい。昼食後の昼寝も気持ちよかった。

 正月三が日はこうやって過ごした。
 神への祈り、美味しい食事、ビールと日本酒、長距離走、スペイン語と英語の学習、ランニング後の風呂と昼寝。
 さあ、今年もいい年になれそうな予感がする。頑張らなくちゃ。

(2017年1月4日、寺岡伸章)
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夜明け前

 人は若い時に時間を有効に使いたいと、深夜遅くまで飲んだり、遊んだりして、活動するものであるが、だんだん年を取ってくると、夜遅くなると眠くなるし、まだ外が暗い早朝に目が覚めるようになる。
 でもこれを悪い習慣と考える必要はまったくない。漆黒の世界に飛び出し、外を歩こう。ひんやりした空気が精神を引き締めてくれるので、気持ちが良い。しばらく真っ暗な中を歩くと、心細かった自分に慣れてくるせいか、安心がやってくる。心が落ち着く。
 明けない夜はないという有名なフレーズにあるように、少しずつだが辺りが明るくなってくる。そのペースは遅いが、確実だ。わたしが大好きな瞬間である。何もなかったところから、山の稜線が現れてくる。ぼんやりしていたその線ははっきりしてくる。一度明るくなるとそのスピードは速くなる。
 宇宙の誕生だ。地球が立ち上がってくる。自然や人工物が姿を現す。物質世界は毎日生滅を繰り返しているという感覚が蘇るのだ。自分もまた、地球とともに蘇る生命の一つである。
 最後に太陽が昇ってくる。いきなり強い光線を身体に浴びせてくる。身体の中の生命を活性化させる。元気になる。

 地球の果てまで、長いフライトに揺られながら、時差ボケにも負けず、出かけて行って、絶景を楽しむこともよかろう。地球環境が美しいうちに経験しておくことは意味がある。でも、身近なところにも、感動を与えてくれる瞬間があることを思い出して欲しい。漆黒の夜から宇宙が誕生する瞬間は何度経験しても飽きることはない。

 早朝に目覚めるのは神からの贈り物なのだ。そのメッセージを受けとるかどうかで、時間の価値がずいぶん変わってくる。

(2016年12月27日、寺岡伸章)
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