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宗教

裸になれ

 人間は生まれたときは裸であるが、恥ずかしさを知るにつれ、衣服を身に付けるようになる。これは自然なことであるので、特段非難するようなことではない。しかし、心の問題になると、そう単純には割り切れない。人間は自分を護るために心に壁を作ってしまうのだ。心を開放し、他人を受け入れるのは本当に難しい。でも、これができるようにならなければ、人と心から交流するようにはなれないし、人として真の喜びを味わうことはできない。人間は心の存在であり、究極的な幸福は心の交わりであるからだ。

 比喩的に言うならば、自分の家に人を招くことができるかどうかだ。人を家に挙げるとなると、掃除をしたり、いろいろと気を遣ったりしなければならないから、面倒だ。人間は面倒なことを避ける傾向があるため、多くの人は自宅への招待は避けようとする。友人には「いつでも来てよ」と言っても、本心からそれを言っていないと、相手からお愛想や外交辞令と見透かされ、家にやってくることはない。

 もちろん、心を開かなければ、生きていけないわけではない。なんらかの才能があれば、一門の人間になれるし、所得も社会的地位も得られるので、それなりに充実した人生を送ることができるだろう。しかし、それでも人を自宅に招くことができるように、勇気をもって自分から心を開くことで、相手の心を開かせ、親密な関係を築ければ、人間は真の幸福を獲得することができるだろう。
 これは言うは易いが、実行は難しい。幸福そうな表情をしている老人を見るにつけ、ありのままの自分を曝け出し、それでいて自然で愛すべき存在に見える。目指すべき一つの理想形である。この領域まで達することができれば、財産なんか要らない。お金を求めて、あくせく働いている人が愚かに見えることだろう。

 これはわたしにとって重要なテーマだ。
 来週、頭を3分の坊主にする。髪の毛は自己をよく見せかける一歩であり、自己保身の象徴でもある。これをばっさり切り捨て、ありのままの自分に帰るのだ。そして、四国お遍路にでかけ、心の壁を取り除くのだ。そうすれば、誰に対しても心のしこりがなくなり、ゆったりした恍惚の心境で生きることができるようになるだろう。

 人は裸で生まれて、知恵をつけて、心を飾るようになるが、その心を開放できるかどうか。このあたりに人間の器の指標があるような気がする。これができるようになれば、涅槃の境地に至るだろう。果たしてできるかどうか。人生は修行である。
 心を開け!
 と自分に言い聞かせながら、生きていこうと思う。

(2017年10月4日、寺岡伸章)
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世間は悪魔と鬼ばかり

 ある大学教授と話していたのだが、今の大学生は他の学生と異なることを実行するのを極度に恐れているという。みんなと似たような価値観を持っていれば、誰からも責められたり、のけ者にされたり、虐められたりする恐れがないからだろうか。決められた路線から外れて生きることに恐怖を抱いているともいう。心の中に不安を抱えて生きているように思える。まるで、年老い、死を怖がる高齢者のように。就職活動に失敗したり、留年したりしただけで、自らの命を絶ってしまうか弱い学生は少なくないそうだ。

 みんなと同じようなことをやったり、流行を追っていては、独創的な仕事を行うことはできない。国際的な厳しい競争に曝されている企業の立場からすると、斬新な発想を創出し、それを実行できる人材を欲しているのだが、学生のほうはそれとは逆の方向に行っているように見受けられる。これが本当だとすると、日本企業は競争に敗れていくことだろう。

 先輩後輩の関係は西欧にない奇妙な人間関係なのだが、親孝行の慣習は弱くなっても、若者の間でも一向に弱体化していない。東日本大震災を契機に人々の絆が大切にされるようになったが、身近な人的関係ばかりが強調され、内向きになっているようだ。真面目で覇気がないとされる所以だろうか。

 西欧社会は神と個人の関係が基本となっているため、社会的権威や伝統がなんと言おうと、神の意思に忠実であれば、わが道を進むことができる。死後救われるし、困難に陥っても精神的支えになるからだ。世間や仲間の価値観や世間の自分を見る目はあまり重要ではない。神を信じる限りにおいては、人間はあらゆる束縛から自由なのだ。

 日本にはそのような万能の神が存在していないためか、個人が共同体の中で相対的に位置づけられるようになる。自分の価値や評価は外から規定されるのだから、周囲の目を気にするようになるのだ。

 でも、自然や大宇宙を神として捉え直し、それとの絶対的関係において自分を規定できないものだろうか。かつて日本でも「お天道様が見ている」とよく言われたものだ。お天道様に申し訳ないことはやらないと考えて自分の行動を抑制したものだ。お天道様は自然崇拝の一つの形態と考え、それを神に見立てて、契約を結び、自由の身となって人生を切り拓いていくのだ。

 パワースポットや聖地巡礼が見直されている。それが自然崇拝へと進み、新しい「神」の発見へとつながっていけば面白い。ただし、そこには悪魔もあなたを狙っている。自然崇拝の顔をした新興宗教があなたの心だけでなく、財産も狙っている。金太郎飴のような人生を嫌い、自分らしい意義のある独自の道を歩もうと思った瞬間、悪魔が近づき耳元で甘い言葉を囁いてくるであろう。それは振り込め詐欺よりも恐ろしい。

 渡る世間は鬼ばかりである。しかし、じつは世間は楽しいことで溢れかえっている。この世は天国でもある。それを見極められるかどうかで人生が決まるのだが。

(2017年9月24日、寺岡伸章)
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中世の復活

後輩たちへ

 みなさん、如何お過ごしでしょうか。私の方は文科省を定年退職して2か月が過ぎようとしていますが、郷里の八代で元気で過ごしています。現役時代との最大の違いは、「毎日が日曜日」のためすべての予定を自分で決めなければならずこの状態から解放される「休日がない」のが最大の苦痛です。考えようによっては、なんとも贅沢な悩みですが。

 田舎暮らしの良さは、「みんな人が良い」ことです。こんなに親切で、気を遣っていただき、大変心地よい生活を送っています。都会のようにガリガリ生きている人をあまり見かけません。視点を変えれば、挑戦や競争が少ないため、人々は内向き志向で、田舎は発展しにくいということかも知れませんが、所得の低さに目をつぶってしまえば、田舎暮らしは捨てたものではありません。若い人の意識も都会志向から変わりつつあるようにも見受けられます。

 近況を具体的に報告します。
 早朝に起きて、自然豊かな散歩道を1時間の歩いた後、NHKの講座でスペイン語と英語を聴き、朝食を済ませます。午前中は、最近始めたデッサンに取り組んだり、読書をしたり、ブログを書いたりと、主に頭を使うことに専念します。デッサンの方は、地域コミュニティセンターの美術クラブに通っていますが、自画像を描いて披露したら、拍手やお褒めの言葉をいただいて、いい気分に浸っています。グッド・スタートとなりました。
 午後はフィットネスクラブで、硬くなった身体をほぐすストレッチ、基礎体力を向上させる筋トレ、リズム感を取り戻すエアロビクス、それに気分転換の水泳を楽しんでいます。帰宅後は至福のシエスタを享受。
 夕食後はテレビを観たりして、ゆっくり過ごす時間帯ですが、時には読書やデッサンに時間を割くこともあります。就寝は午後11時まで。外での会食が激減したため、お小遣いはほとんど減りません。

 趣味の長距離ウォークの方は4月中旬の福岡県糸島三都110キロウォーキング大会(1500人中87位)、5月ゴールデンウォークの長崎県佐世保・島原105キロウォーキング大会(900人中92位)に出場しまずまずの成績を収めました。でも、筋トレとフォームの改善をしないとこれ以上の向上はないと痛感しました。

 まったく初めての作業にも挑戦しています。庭木の剪定は芸術作品の創造と思って楽しみましたが、脚立の上の作業は少々怖かったです。小さい畑にはアシタバの苗を植えましたので、今秋の収穫が楽しみです。庭先に撒いたゴーヤと朝顔の種がどこまで成長するか期待しています。先日は、庭の梅木から採取した青梅を使って、梅酒作りに励みました。地酒は美味しいでしょうね。蝶々、蜂、トカゲ、小鳥が庭で遊んでいるのを眺めていると、自然というのは目の前にあるものなんだと実感させられます。眺めていても飽きませんね。

 今日土曜日はゴルフのラウンドに行き、明日は文芸雑誌の仲間の合評会に出席します。作品に対して色々な意見や感想が飛び出し、大変勉強になりますので、嬉しいです。
 いよいよ6月2日から北スペインの巡礼の旅に家内と出かけるため、最終準備の段階に入りました。800キロの世界遺産の道のりを楽しんで来ようと思っています。北スペインの田舎の風景、ワインと料理、世界の人々との出会い、パワースポットやスピリチュアリティの経験も楽しみです。大都市ではテロが発生したいますが、田舎はターゲットにならないでしょう。もし仮に、バチカン、エルサレムに次ぐ第三のカソリックの聖地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂(聖ヤコブが祀られている)が爆破されることになれば、宗教戦争にまで発展します。ISはそこまではやらないと思います。
 人間がお金の奴隷になり、尊厳を失ってしまっている今、神々を信じていた中世の時代の人々に思いを馳せるのは悪くはないと思っています。物質的に豊かになった近代は人間を貶めているように思えてしかたありません。

 役人としての仕事も楽しかったのですが、世の中にはまったく違った楽しいことも沢山あります。それらを発掘して自ら享受していきたいですね。
 スペイン人の口癖を書いて、筆をおきます。
La vida es maravillosa! 人生は素晴らしい!
 世界は楽しいことで満たされていますよ。みなさんも人生をエンジョイして下さい。

(2017年5月27日、寺岡伸章)
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ジャイナ教

 メディアの関心事は高齢者の問題で溢れているように思えてきた。徘徊による行方不明が年間1万件以上もあることや、身寄りのない孤独死の事件が取り上げられている。人生の終わりは家族に看取られながら往生するのが最高の死に方という暗黙があるようだ。最後が良ければすべて良しというのは一つの理屈として理解できないわけでないが、何事も一歩踏み込んで考えようとするわたしにとって少し違和感を覚えてしまう。

 死に方なんて本人が選択できるわけではないし、ましてや最期が安らかだからと言ってその人の人生がすべて良かったとは限らないし、本人の人格や価値観や実績とは関係がない。むしろ、その人の数十年にわたる生き方そのものこそ問うべきであると思う。最期が幸せかどうかを問題視するのは、むしろ遺族の側が気持ちの上で「〇〇の人生は良かった」と割り切りたいからではなかろうか。自分の両親は幸せな人生を送ることができ、自分も最後の親孝行を務めることができたとみずから納得したいのではなかろうか。人生最期を気にするのは本人ではなく、遺された人々の発想ではなかろうか。

 徘徊老人が行方不明になり、山中で餓死したり、用水路に嵌って水死したりしたとしても、それを不幸な出来事として強調するのはどうかと思う。自宅で静かに孤独死しても、病院で誰にも看取られずに逝ったとしても、それは本人が選択したことではない。それらのイベントを冷静に受け入れる勇気が我々に求められているような気がしてならない。
 死はテレビドラマのように遺族に迎えられるようにはなっていない。死は急いでやって来て、瞬く間に去っていく。それが人生の最期であると認識し、その前の膨大な日々という時間をどのように生きたのかを問うべきだと思う。

 インドに仏教系のジャイナ教という一派がある。これは生き物を殺すことを厳しく戒める宗派である。その宗派の信者は、ある年齢を超えると、財産をすべて処分し、出家するように促される。世間では、お経を唱えて信仰を深めながら、托鉢で食べ物を確保し生を支えていく。病気になったり、老化が原因で路傍に倒れるまでそのような生活が続く。どこで死のうがそれが問題でなく、人生の意味を悟ることができるかどうかが重要なのである。心の状態や信仰が重要問題なのだ。そもそも仏教に限らず、あらゆる宗教において、死ではなく生が重要であったはずなのだが、現代ではそれが逆転し、生きているときの心の平安は個人の問題としてスポットライトが当てられず、死の形だけが重要視されるようになった。まさに、生死の形式化や形骸化が進んでいると思う。
 本人の心の叫びは無視され、肉体の有り様ばかりがクローズアップされてきている。物質文明が極度に発展したためか、精神文化がひどく低い位置に押し込まれてしまっている。これは人間精神の退化である。唯物論がはびこると、人間精神が退化する。モノが溢れているが、心に焦点を当てると、この世は地獄である。

 どこでどのような死に方をするかは重要事項ではない。生きているその時間帯に如何に実感を持って生の有難さを感じることができるかどうかが問題なのである。
 肉体よりも精神や心に関心を寄せるべきである。実存主義を再び。

(2017年4月28日、寺岡伸章)
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庭木の剪定

 母が亡くなって数年間、実家は空き家であったため、70坪程度の庭の樹木は茫々と茂っている。野性味があって逞しいとも言えるが、なんだか品がないようにも見えてしまう。やはり、少しでも人間の手をかけて住人の品格に相当する庭木にはしたいものである。
 庭師に依頼するということも考えたが、無収入の身でもあり、時間もあることからここは新たに経験をしてみることにした。やってみると意外に面白いかもしれない。

 さっそく剪定ハサミとノコギリを新調し、勝手に天に向かって伸びていた庭木の手入れをすることにした。脚立は小屋に収納されていた古いものを使用した。慣れない作業で落ちてしまうと、大けがをするので、無理をして手を伸ばさないように注意した。高いところは散髪されていない。
 初日は30分、翌日は1時間と増やしていったが、さしあたり作業を終えるのに5日間もかかってしまった。でも、面白かった。来年いた今秋もやってみようと思う。大げさに言えば、芸術作品を作っているようなもので、単純に枝葉が短くなったというのではなく、各々の木が散髪をしてスッキリした紳士淑女になったのではないかとも思えないこともない。わたしの腕は超初心者なのだから、刈り損ないが多いのだが、それでも超自然な頭髪よりもましなような気がする。

 ノコギリも剪定ハサミも新しいせいか、切れ味は鋭い。容易に刈れるので、面白くなり、つい刈り過ぎはしないかと気になったが、プロの庭師の仕事を思い起こしてみると、徹底して刈り込んでいたように思える。生前の母は刈りすぎでみっともないと愚痴をこぼしていたのを思い出す。そんなことを思い出しながら、ノコギリとハサミはぐいぐいと仕事をしていく。予想以上に刈り込みのスピードが速い。なんだか子どもが彫刻刀を与えられて、木版を熱心に彫っているような気分になった。
 枝葉が削ぎ落されたので、視野も開けてきた。木々が空間を争うように占拠していたが、勢力範囲が決められて落ち着きを取り戻したようだ。おそらく自己満足だろうが、庭も生き返ったように感じられる。蝶にも気に入られたのか、どこからか数匹が飛んできて、庭で羽を休めている。疲れもあまり感じずに楽しい初体験だった。

 剪定作業の3日目が過ぎたころ、親戚の伯母さんが急いでやってきて、「家屋の南側に植えられた樹木は切るな」とわたしに注意した。家屋や庭木に手を入れるべき季節は決められているため、それに背くと、神々の怒りを買うというのだ。5月は北側と東側の庭木に手を入れ、南側は9月に回せと真顔で忠告された。祟りは恐ろしいとまで言われた。親父が56歳の時急死したのは、家の改築が終わってからすぐだった。やるべき時期を間違えたために、悪い結果を招いたのだと諭された。その因果関係を科学的に探求することはできないが、無理に実行するよりも、ここは話を受け入れた方がよいと思った。南側の樹木はほとんど終わっていたが、残りの作業は9月以降に回すことにした。土地の神様を鎮めるため、塩を庭に撒いて清めた。
 わたしの剪定作業に気が付いた、隣の畑で農作業をしていた農家の方が獲れたばかりの玉ねぎをくれた。急がずにぼちぼちやって下さいと言われた。その言葉の意味は身に沁みてよく分かる。何事にもリズムがあるのだ。必要以上に急いだりすると、怪我や病気など不測の事態を招くことになりやすい。大事なことは急ぐべからず。自然のリズムに合わせて動けばいいのだ。

 こうやって、庭の剪定作業は無事に終わった。仕事や義務としてではなく、庭をいじりつつ自然と一体になろうという試みはスタートしたと思う。田舎生活の魅力は自然や神々や人々との共存である。新しい生活はうまくいっている。今後の展開が楽しみである。

(2017年4月25日、寺岡伸章)
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悪い奴ら

 悪とは何だろう。ウソを言ったり、表面ばかり取り繕う人とはあまり付き合いたくない。でも、そのような人は悪い人かもしれないが、真の悪とは言い難い。こちらが注意すれば、被害を最小限に食い止めることができるので、たいした悪ではない。

 では、本物の悪とはどのようなものなのだろうか。振り込め詐欺はどうか。これは知能犯だが、これも冷静に対処できれば、問題が起こることはない。騙される方の防御に問題がある場合があるので、極悪とは言えない。還付金があると言われて、ATMの前で相手の指示通りに操作するのは、還付金というエサ(欲)に釣られているからだ。つまらない欲を捨てれば、罠に嵌まる恐れはない。

 真の悪は悪の顔をしておらず、むしろ善のように見えるのではなかろうか。これは怖いし、騙しから逃れることは難しい。なぜならば、我々は常に善を為そうとしているためである。善を追っていくと、いつの間にか迷路に入り、知らないうちに悪に荷担していることがあるのではなかろうか。戦争を嫌悪し平和を叫ぶ人々によって却って戦争への道が整備されることがあるような気がする。あるいは、小さい悪を許容できないが故に、大きな悪を招き入れる場合があるのではないのか。つまり、どんなに善人ぶっていても、心の中には常に悪が浮かび出そうとしているからだ。ちょうど、体内でいつもがん細胞が発生しているが、免疫細胞がそれを叩いているため、がんが顕在化することは滅多にないのと似ている。免疫細胞はつねに正義の味方かと言うかと、それが正常細胞を過剰に攻撃し、病気を発生させてしまうことがある。善悪の区別も身体も深淵である。

 では、このような人は悪なのか善なのか。世の中は結局のところ、搾取する側とされる側に分けられており、この世を楽しく過ごすには前者の立場にいたほうがよい。このような発想は悪なのか、それともニュートラルであり、真実を語っているに過ぎないと考えるべきなのか。搾取する側は権力とお金を持ち、人々を支配したり自己の欲望を叶えようとする。支配は悪とは言い切れない。リーダーシップと言い換えれば、イメージが180度転換し善になる。権力は突然暴力的になる可能性があるから、恐ろしい。悪になることもある。お金はどうか。お金には罪はないが、お金持ちはそれを利用して、横柄に振る舞う場合があり、迷惑だ。このとき悪に転じる。

 これは未解決の問題だ。でも、社会の法令に抵触せず、権力を得たり、お金持ちになろうという行為は許される。社会はそれを認めている。人間の価値は所有する資産の額や社会的地位に比例すると考えている人は少なくない。すくなくとも資本主義という社会システムはそうなっている。拡大再生産が資本主義のエンジンだが、そこには悪が潜むと考えてもおかしくはない。人間の諸問題の原因はお金の不足にあること(例えば、貧窮や差別)を考えると、社会システムが正当化されても、それを信奉する人々は悪ではないのか。少なくとも悪の萌芽を孕んでいる。じつはこのような行為は発展のエンジンでもある。資本主義は発展をメカニズムを巧妙に取り入れているのだ。欲望という悪の萌芽が社会を進歩させるのだが、その小さい動機は社会の大きな歯車を回転させ、結果として悪を社会にもたらす可能性がある。少なくとも悪をゼロにすることはできない。

 我々の心の隅で悪が浮き沈みしているように、社会にも悪が蔓延っている。もちろん、善も健在だ。悪を退けて、善を行うと人々は軽々しく言うが、本当のところは極めて難しい。でもこれだけは確かに言えよう。人々の苦しみを少しでも軽減化するする行為はその時点においては絶対的に善であると。
 人間性を大切にすることは大事なことだが、その人間性には欲が潜む。欲がなければ、人間の物語は進展しないし、面白くもない。そう考えると、やはり、人間は人間的に生きようと思えば、悪なしには生きられない。善なる神がこの世を創造したとき、なぜ人間の心の中に悪やサタンも造ってしまったのかという命題は神学論争の一つだが、わたしには難しすぎて答えが分からない。

 人間は罪深き存在である。「善く生きる」ことがわたしの人生目標であるが、それは容易なことではない。

(2017年2月28日、寺岡伸章)
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