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教育

東北大学卒業式

 3月24日、東北大学の学位記授与式(いわゆる卒業式)に列席してきた。学部生、修士生、博士生など合わせて4612名が学位を授与された。女性は1138名で25%、外国人は270名で6%だった。世界を牽引する東北大学としては留学生率6%という数字はけっして高いとは言えない。今後の飛躍を期待したい。

 里見総長の学位授与者に送る言葉いわゆる告辞の内容のポイントは二つだった。
 まず、「よりよい社会とは何か」を再考してもらいたいということだった。6年前の東日本大震災によって学術のあり方も厳しく問われた。震災復興にどれだけ貢献できるのかその存在意義が追究された。人間の福祉に貢献するはずの科学技術の逆襲も起こった。これは東電福島原発事故のことを指摘しているが、原発も原子力という言葉も使われなかった。その理由は分からないが、事件が風化するのを心配する。
 いずれにしても現代社会の発展のエンジンである科学技術の負の側面が顕在化したのである。さらには、遺伝子解析や生殖医療(この言葉も使われなかった)により生命倫理のあり方が問われるようになっている。科学技術の発展により状況が変わり、何だ正しいのか、どうあるべきであるのか、人間は岐路に立たされている。そのために、原点に戻り、よりよい社会とはいったい何なのかを考え直さなければならなくなってきていると言うのだ。卒業生の皆さんはそのことを常に考えて本学で学んだ専門性を活かして社会に貢献してもらいたい。

 総長の二番目の主張は、「他者を感じる力」を身につけてもらいたいというものだった。世界を見渡すと、文明の衝突や難民の移動が起こっているがそれを排斥しようという反動も起こっている。多様性を認め受容するという態度も失われているように思われる。地球環境問題の解決に当たっても自分の利益を優先するのではなく、人類全体の利益や他者の気持ちを感じ取る力が必要である。自分が生きて行くにも厳しい状況がやってくるかもしれないが、どうか他者の気持ちを忖度することを忘れないで欲しい。

 この二つの点が里見総長の言いたかったことではないかと思う。
 最後に、留学生に向けて英語でのスピーチも追加された。東北大学は一層国際化を目指すというメッセージとして英語のスピーチが行われたのであろう。

 学位記授与式終了後、優秀な学生・大学院生、クラブ活動の優秀学生、研究で優れた業績を挙げた教員、教育で業績を挙げた教員、貢献した技術支援者などを対象に授賞式が行われた。東北大学は勉学だけでなく、クラブ活動で頑張った学生や、教育や研究支援で優れた業績を挙げた人々にも脚光を浴びせているのは素晴らしい伝統と思う。
 東北大学は「研究第一」を標榜しつつも、大学に携わるすべての人々に目配せをしている証拠である。静かで厳かな雰囲気の印象に残る卒業式だった。
 ただ、式典の前にワーグナーの奏楽があるものの、国旗掲揚や国歌斉唱が行われないのは議論のあるところと思う。大学は国家権力から一定の距離を保つのはその役割として当然としても、国民統合の象徴としての国歌が歌われないのは寂しいような気がする。

(2017年3月27日、寺岡伸章)
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愚直なノーベル賞学者

 ノーベル賞授賞は何を基準にして決められているのだろうか。ノーベル賞授賞は被引用数などの定量的指標ではなく科学業績で決められていると信じられているが、それは事実でない。建前は科学業績かもしれないが、本当は業績ではなく、それを含めた「科学者の人間そのもの」を評価しているのだ。最終段階では、客観性でなく選考委員会の「主観」で決められるのだ。そうしない限り、年間わずか数件の受賞を決められない。しかし、主観で決めたと本音を言うわけにもいかないため、選考の論拠となった代表的論文や科学歴史上の貢献度などを並び立てている。実世間はまどろっこしい。

 人間の主観こそ本質を見抜く力だというのだ。わたしはこの言説には痺れてしまいそうだが、大いに参考にすべきことだろう。科学は客観性が命のように言われるが、究極の場においては、主観は客観より重要である。

 山中伸弥教授は細胞の発見で2012年ノーベル賞生理学・医学賞受賞の栄誉に輝いた。教授は研究に着手した当時、流行の生殖細胞から抽出したES細胞を使った研究ではなく、体細胞からiPS細胞を得るという極めて独創的で挑戦的な研究を行おうとしていた。まったく無名に近かった山中伸弥奈良先端科学技術大学准教授(当時)はJSTのCRESTという競争的研究費に応募すると、選考委員会のヘッドを務めていた岸本忠三元大阪大学学長はiPS細胞の実現は困難だろうが、元気で熱意のあるプレゼンテーションが印象に残り、何か面白い成果が得られるかも知れないと直観し、山中准教授の提案を採択した。世界一流の研究者でもある岸本教授の「遊び心」が奏功したのだった。それにしても、岸本教授もできないと思っていたことを山中教授はやってのけたのだから、偉いと断言できる。予想外のことができるのところに科学の醍醐味がある。

 2016年ノーベル賞生理学・医学賞を単独で受賞した大隅良典東工大栄誉教授が30年ほど前に研究に着手したのは、当時流行していたタンパク質の合成メカニズムの研究ではなく、不要なタンパク質を分解するメカニズム解明の研究だった。いわば細胞内の「ゴム処理」の仕組みである、オートファジー(自食作用)の研究だった。世界中の誰も手がけていない研究はライバルもいなく、伸び伸びと研究を進めることができたという。
 時代は巡り、オートファジー研究で成果が生まれてくるにつれて、大隅教授の研究分野に注目が注がれるようになる。最終的に、大隅教授はオートファジーのメカニズムを解明し、その重要な役割に世界は驚くことになるが、教授は研究を始めるに当たりその重要性を直観できたというのだから凄い。先見性の賜である。ここに科学の真の面白さがある。

 113番目の元素は発見者の母国日本の名前から「ニホニウム」と名付けられた。元素の命名は日本だけでなくアジアで最初の快挙である。この元素の発見者は元理化学研究所の副主任研究員(当時)の森田浩介氏(現九州大学教授)であるが、彼はこの困難な研究に挑戦していたとき成果が出ず、10年間まともな論文を1本も書けなかったと言われている。現在のような定量的な評価が蔓延っていたら、森田氏は成果の出やすいテーマに変更したか、あるいは研究所を追われていたかもしれない。定量的評価は独創的研究の大きな阻害要因になる恐れが大きい。

 2014年ノーベル賞物理学賞は青色発光ダイオード(LED)を発明した日本人3名に贈られた。その研究成果の要は安定した単結晶を作成することであり、当時世界中のほとんどの研究者は作成しやすかったZnSeの単結晶化に注目して、一番乗りを目指して激しい競争を繰り広げていた。しかし、受賞者の一人となった赤﨑勇名古屋大学教授(当時)はGaNの方が硬くて安定性が高いとして単結晶化に挑んでいた。追従する者はいない。この分野の世界的権威がGaNの単結晶化は不可能であるとだめ押しし、さらにGaNの結晶は作成不可能であるという理論も流布していたからだ。しかし、赤﨑教授はそのような逆境であっても、GaNの単結晶化は可能であると直観し、研究を継続したのが奏功したのだった。これはノーベル賞への道の公式な経緯である。

 しかし、世の中はそんなに単純ではない。当時の赤﨑教授も流行には逆らえず、作成不能な理論が出ているのだから、GaNの研究を本気で行う気はなかった。当時のJRDS(現JST)は他の研究機関で行っていないGaNの研究に挑戦するのであれば、研究費を提供すると持ちかけ、赤﨑教授もやむなく遊び心で引き受けたのだった。さらに、GaNの単結晶化は研究室のメインのテーマでなかったため、赤崎教授がそれを行わせたのは当時エリート大学院生とは言えない天野浩氏だった。主流の優秀な学生には成果が出やすい研究を担当させたのだ。ところが愚直で研究熱心な天野氏はGaNの単結晶化をやってのけた。赤崎教授にとっても予想外の出来事だった。エリートから歴史を変える研究成果が生まれるとは限らないのだ。
 もっとも優秀な理工系の頭脳を持つ学生が集結していると言われる東大医学部と京大医学部の出身者からノーベル賞学者が生まれていないのは偶然ではない。

 科学の女神は移ろいやすい。幸運がもたらされる科学者を言い当てることは人間にはできない。人間の目から見ると偶然でしかない。科学のもっとも面白いところである。

(2017年3月21日、寺岡伸章)
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怠惰なサムライ

 日本の大学の世界ランキングは発表の度に、低下が続いている。アジアの大学の中でもトップ100に入るのは前年より2校減って、7校になった。このようなランキングが発表されると、国内の大学から評価指標がシンガポールやマレーシアのような英語教育圏に有利になるように偏っているという批判が聞こえてくる。英語でなく母国語の日本語で高等教育を行っているのは自国文化の高さであり、もしろそれを誇りにすべきであるという根強い議論がある。その結果留学生数や外国人教員が少なくなり、ひいてはアングロサクソン系の評価指標では実力よりも低く位置付けられるというのだ。また、仮に教育で負けていても、ノーベル賞学者数で明らかなように、研究レベルではアジアどころか、世界のトップクラスにあると胸を張る。
 しかし、最近、北京大学や清華大学のような非英語圏の大学に抜かれると、今度は中国はお金があるから教育も研究も何でもできるが、日本はお金がないことがネックになっていると言い直す。巧みな負け惜しみばかり並べ立てている。敗北をけっして認めようとしないのが日本人の最大の欠点になっている。

 中国の大学に限らず、シンガポールやマレーシアの大学はもっとも斬新的な発想に基づいて21世紀にあり得べき大学を真剣に模索してきた。奨学金を出して周辺国から優秀な学生を招き寄せたり、世界中の優秀な研究者を掻き集めたり、ネットを介した米国の有名大学の授業受信などの施策を次々と打ち出してきた。また、文理融合のみでなく芸術の知識も含めた総合的な知見を持つ学生の育成、西洋科学のみでなくアジアの思想も併せ持った人材の養成にも取り組んできている。縦割りの学問の弊害をいち早く察知し、果敢にチャレンジしているのである。

 一方の日本の大学は旧態依然とした組織や運営に閉じ籠もり、世界の潮流から大きく取り残されようとしている。学者も学生も発想が内向きになり、未来を見据えたチャレンジを怠っている。そのような不作為の結果が世界の大学ランキングの低下を招いていると気がついていない。あるいは見ようとしていない。ガラパゴス化が甚だしい。

 明治維新は海外の事情に詳しい開明的な野心的な人々が改革を進めた。当時日本は新興国であったのだから、そのようなエネルギーが内部から吹き出してきたのだろう。現在、そのような新しい時代のうねりはアジアの新興国から起こっている。日本の大学は老大国のそれである。先進的なアイデアや独創的な発想がリスクが大きいと見做されて、敬遠されている。誰もリスクを取りたがらないからだ。

 勤勉で素直なサムライはいったいどこに行ってしまったのだろうか。

(2017年3月21日、寺岡伸章)
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ワクワク、ドキドキ

 人間は言語を使うが、それではなぜ言語が存在するようになったのだろうか。それは目に見えないものを共有するしたいという欲求からである。モノが目の前にあれば、言語でとやかく説明する必要はないが、その場にないモノや抽象的な概念(夢、希望、平和、愛等)を表現し、相手に分かってもらうためには言語が必要になる。

 人間は一人ではか弱い存在であるため、集団で行動し、社会を作ったが、家族や社会の構成員と共感し合う能力は他の動物とは群を抜いている。つまり他人からの評価が自己存在の意義を見出してくれる。だから、仲間から無視されるのは非常に辛いのだ。人間は自ら自分の価値を規定できないのである。周囲から認められて初めて生き甲斐を感じられるのである。言葉は共感能力を強化するために発明されたと言える。

 いずれにしても、言葉の発明は科学を生み、文明を進化させた。科学を行う者、つまり科学者は人類がまだ知らない概念を創造するために、自然界の謎の森を一人で歩かないといけない。他人と共通の目標を持って集団行動するのではなく、オリジナリティを追求するため、孤独に耐えないといけないのだ。しかし、それは最終的に人類に貢献することであり、共感できるものを作ろうという行為そのものである。科学者は一人で森の中に入って行くが、目的地に辿り着けば、その存在が知られ人類共通の場になる。

 科学は客観性を装うが、客観的なものそのものはあまり面白くない。面白いのは主観的なものだ。主観的段階のものと言い換えた方がいいかもしれない。科学者が悦びを感じるのは一人でもがき、発見や発明のダイナミズムに我が身を捧げてワクワクしているときであり、それを誰かに説明する段階ではない。人々に理解してもらうには客観的で合理的な説明が必要なのであるが、じつはそれ自体は退屈な作業だ。分かってもらえたとしても、その楽しみは質が異なる。政府は一流の研究者にアウトリーチ活動を義務付けているが、科学者の本質を知らない愚行のようなものだ。納税者への義務だとか叫んでも、そのような活動は有能な科学者の時間を無駄に消費するだけである。科学者の心は政府にも一般国民にもあまり理解されていないのである。

 科学的知識が成熟し緻密化されてくると、科学は貧困化し、カオスや野蛮を求めるようになる。ちょうど写実主義がピカソや印象者の画家を誕生させたようなものだ。科学を面白くするために、既存の知識体系の破壊者が必要になってくる。人間の知識の体系化には自ずと限界があるため、自然に学べと叫ぶ者が出現する。動物の生態や自然の営みには人間の知性は叶わない。それは美しく、人々を魅了して止まない。自然から学ぶというゼロからの出発が必要になってくるのである。
 つまり、文明が進化し、行き詰まっても、その壁は打破できるという希望と夢があるのだ。いや天や宇宙から与えられていると言ってもいいかもしれない。人間は面白いことやワクワク感を感じずにはおられない。それは性による官能よりも根源的で深いものだろう。それは人間存在理由と切り離せるものではない。

 関西風に言えば「おもろい」を求め、まずは「やってみなはれ」という軽い気持ちが最初の一歩である。この一歩が踏み出せれば、目標は半分実現したようなものだ。科学も事業もやれば何でも面白く、世の中は面白いことで溢れている。それを感じる鋭いアンテナを常備しておくことも大切だ。これは他人から教えてもらうものではなく、自ら学ぶものである。人生は自ら探求するしかないのだ。

 人生を楽しむためには、深く考え、柔軟に発想し、気楽に行動することだ。ワクワクさせられる謎とその回答はいつでもどこでも用意されているのだから。

(2017年3月17日、寺岡伸章)
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博士課程に進学しないワケ

 周辺国がきな臭くなっているなかで、日本が生き残っていくためには、安全保障でも経済活動においても科学技術力に頼らないといけないのは明白だが、残念ながら国際社会における日本の研究開発力は目に見えて低下している。主な原因は二つだ。
 一つは他国が積極的に研究開発費を増加させているなかで、日本のみがほとんど増加させていないという現実だ。もう一つは優秀な学生が科学者の将来に希望が持てず、博士課程に進学したがらないという状況だ。
 東北大学物理部門の修士課程でトップクラスで卒業する女子学生に話を聴く機会があった。
「博士課程に進学すると生活のために奨学金を受給せざるを得ないが、それは返済しなければならず、博士号取得の時点で5~600万円の借金を背負うことになる。その上さらに、運よくポスドクの資格を得て、大学や研究機関を渡り歩いたとしても、助教の定職に付くことは難しくその保証はない。じじつ、ポスドクをずっと続けている人は多く、当然給与の上昇は見込めない。人生設計の目途が立てられない。過去においては、そのような厳しい環境下でも、好きな研究に人生を賭けるという生き方もあったかもしれないが、そのようなロマンスに惹き付けられる若い人は少なくなってきていると思う。
 さらに、日本の大学は男性中心の閉鎖空間で、パワハラやセクハラの巣窟である。学生や身分の安定していない女性は自己主張したり、拒否できない掟や雰囲気がある。そのような後進的なところで、生きて行くには逞しさや柔軟性が必要であるが、それらの能力が自分に備わっているとはとても思えない。企業に入って、社会のためになる技術開発をした方が面白いのではないかと考えた。
 そんな理由から進学を断念した。迷いはなかった」

 優れた研究はお金と人材に依るところが大きい。体質を変えられない日本の研究機関に明るい将来はないのではなかろうか。有名大学の博士課程の定員割れが10年以上も続いている。大学院学生を大切に処遇しないのだから、そのツケは次世代が背負うことになる。日本人のノーベル賞受賞者はあと数年続くか、その後は稀になるに違いない。

 教育と科技政策を担う文科省の役人が隠れ天下り手法に腐心しているのだから、何をかいわんやである。うまくいくはずがない。

(2017年3月10日、寺岡伸章)
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小学校のクラスメイト

 小学校のクラスは社会の縮図だ。
 高校や大学や会社になると、ある基準や好みで選抜された人々の集合体になるため、「偏り」がでてくるが、小学校の段階では無差別に生徒が集められているため、それが将来の社会を構成するメンバーになると考えてよい。この頃のクラスの顔ぶれを思い出すと分かるのだが、勉強のできる奴、運動の得意な奴、芸術に長けている奴、周囲を楽しませるおもしろ奴がだいたい1割程度ずついて、その他6割は特技のない平凡な生徒に分類されるのではなかろうか。これは厳密に調べた訳ではなく、単なる印象に過ぎない。しかも、当時そのように分けていたのではなく、今になって振り返るとそのようになっていたと漠然と思っているに過ぎない。

 勉強のできる奴は、中学、高校、大学、社会人となるに従い、さらに選別が行われていく。最後まで勝ち残った人々は、医者、弁護士、学者、高級公務員、大企業経営者、マスメディア幹部、政治家となっていく。いわゆる世間で勝ち組と言われているエリートであるが、エスタブリシュメントとしてこの国の舵取りをする人々でもある。所得も高く、社会的地位も得ているため、威張っている。個々人をみると、競争に打ち勝ってきただけあって、優秀な人が多いが、社会的地位を勝ち取るまで競争に晒されお疲れ気味のせいか、ポストを獲得した後の競争は比較的緩い。それに比べて、これらの勝ち組に入らなかった人々は厳しい環境下におかれ、処遇もけっして楽ではない。日本のエリート達が国際比較において、劣っているのは競争が厳しくないためであると考えられる。一度あるレベルまで駆け上がってしまうと、そこは平らな高原であり、社会全体を見渡せる快適な位置なのだ。天下り問題が社会から厳しく指弾されるのは、いつまでも特権に甘んじているためである。

 勉強のできる人は合理的思考に優れているのだが、その分、どこまで深読みしているのか見当が付かず、付き合うのが疲れる。でも、運動神経、芸術的感性、人格などの他の能力は普通レベルと考えられる。エリートが社会的問題を起こすのは基本的にこのような能力の欠如に負っているのだろう。マスメディアは彼らがエリートにもかかわらず事件を起こしたという報道の仕方をするが、そもそも社会人としてのバランスを欠いているのだから、問題を起こしたとしても不思議ではない。すべての面で優れている人物は稀である。
 運動のできる人は身体を動かしているときは美しい。でも、考えることが面倒で直観に頼ってしまうところに難がある。一般に内臓も強いため酒や女に強い。つまらないプライドを気にすることがないので、楽しい友達付き合いができる。
 芸術タイプの人はエネルギーを外部に発するのではなく、内面に向ける。自己表現と芸術的創造性の発揮に情熱を傾ける。このような人との付き合いは、彼が大切にしている芸術世界に関心を示せれば、難しくはない。心の交流には価値観に寄り添うことが大事だ。
 最後が面白い人だ。人生は結局のところ楽しく過ごさなければ意味がないという発想をする群だ。お金や地位があっても、それを守るためにストレスを溜め込んだり、ウソの自分を演じたり、厚い仮面を被っていても、辛いだけでつまらないと感じる人々だ。今日も楽しいことをやろうぜというラテン系の乗りである。彼らは開放的であるため、容易に仲間に入れてくれる。酒を飲み始めればみんな友達だが、楽しいことや面白いことをやらなくては評価されない。そこが凡人には辛いところだ。

 定年退職後は自由になる。どのような人と付き合うのが楽しいだろうか。勉強タイプとの付き合いには、日頃から読書を怠らず毎月文藝春秋を読み知識の流行を把握しておかなければならない。運動タイプとは、ゴルフ、ハイキング、ウォーキング、スイムで身体を鍛え、それなりのレベルを持っていないと尊敬されない。芸術家タイプとは、小説やエッセイを書いたり、デッサンや油絵を描いたりして、美的感覚を養う必要があるだろう。創造性は人間のもっとも優れた才能だから、磨きをかけておかなければならない。面白い人々との付き合いは、雑談力で自分のユニークさを表現しつつも、やはり誰も考えない愉快なことをやらないと説得力がないだろう。雑談ではメッキはすぐ剥げそうだ。独創的な生き方とは存外難しいに違いない。オンリーワンになるためには、自己は誰かを知らなければならない。やはり、生きていくのはここがスタート地点だ。

 でも、渡る世間は鬼ばかりと若いころは思っていたが、最近は世の中は仏様と楽しい人と事で溢れていると思うようになった。わたしも少しは成長したのかも知れない。

(2017年2月22日、寺岡伸章)
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