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八代市の再生

秘境・五家荘

 九州中央の山地の五家荘は平家落人の里と晩秋の紅葉で有名なのだが、まだ行ったことがなかった。平成合併で五家荘が八代市に組み入れられ、地元の一部になって以来いつかは訪問しないといけないという気持ちばかりが募っていた。今回の帰郷が大きなチャンスになった。

 八代市で5月12~14日開催された九州国際スリーデーマーチの初日の選択の一つは前泊し五家荘の新緑を楽しむウォーキングのため、妻と二人で出かけた。総勢22名の参加があったというが、昨年は熊本地震の影響で定員に達していなかった。北海道や福島などの遠来の客も含めてこれだけの参加者が集まったのは、熊本地震復興のために地元民を元気付けようというためである。ありがたいことである。

 五家荘は渓谷も深く、鬱蒼とした森林に覆われた自然が豊かなところだった。新緑が眩しい。山桜も最後の力を振り絞って咲き誇っていた。標高1000メートルに満たないが、市内とは別世界である。道路は舗装こそしてあるが狭く、対向車とのすれ違いは離合地点まで引き返さないといけない。街を悩ましている黄砂やオキシダントは無縁な世界だ。空気が澄んでいて、爽やかである。思わず笑顔が弾ける。眉間に皺を寄せている人はいない。

 民宿のような旅館の夕食も良かった。マスの刺身、鹿肉のたたき、鹿肉の天ぷら、新鮮なタケノコ、地元の特産の豆腐、山の幸が所狭しと並ぶ。ビールや焼酎を飲みながら初対面でもすぐに古い友人のように打ち解ける。食べきれないくらい料理が次々とやってくる。他愛のない話題も何だか深遠な意味を含んでいるかのように心に響く。受ける側も深い山奥で健康的な鋭敏な感覚になっているからだろう。会話はお風呂の制限時間まで続くが、また会いたいと思わせる人ばかりだ。良い人が集まっているのではなく、秘境の里が人を良くするのだろう。心も浄化してくれているような心地よさを感じる。

 強く印象に残ったのは70歳代の元気の良さだった。歩いていてもバスの中でも会話と笑いが途切れることがない。体だけでなく、心もすこぶる健康な人たちだ。団塊の世代は幸せだったという思いが湧いてくる。自信に満ち、結束が固い。なんでも制御できると思っているし、実際にやり遂げてしまう。

 ウォーキングの終盤、雨が降ってきたが、それでもゴール地点で鑑賞した「せんだんの轟」(滝の意味)は日本滝100選に選ばれているように、見ごたえがあった。高低差は70メートル前後という話だった。

 五家荘には紅葉の季節に再訪したい。カラフルな絨毯のような山奥はふたたび心を癒してくれるに違いない。

(2017年5月13日、寺岡伸章)
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生活が第一

 定年を迎え仕事を辞めると、暇になると思っていたが、そうではないことが分かってきた。毎日の生活を送るうえで、結構忙しいのだ。
 昨日は電車に乗って、熊本市のデパートまで買い物に行った。ゴルフウェアのパンツ、半そでシャツ、アンダーウェアを買ったのだが、最終的な選択に行き着くまでどれが似合うかと妻と話し合いが続く。どれもこれも欲しいのだが、それなりの色とデザインのものに落ち着いた。
 今まで試着は面倒と思っていたが、やってみると面白い。ショッピングも楽しめるようになれそうだ。生活を充実させるための重要な要素であるにちがいない。仕事で何かを生み出すこととは異なる世界がそこにはある。仕事が価値があり、ショッピングは単なる消費にすぎないとは思えなくなってきた。それにしても、購入した3点の商品の価格はゴルフ会員権よりも高価であるのは複雑な気分だった。ゴルフは大衆のスポーツになったけれど、ファッション業界は新しいデザインと素材を創造し続けているということなのだろうか。

 わたしの買い物が終わると、妻の服を買うべく、婦人服売り場に向かった。妻のショッピングはまずフロワァー全体を一周して見渡し、その後気になったお店に入って自分のお気に入りのものを探し出そうというやり方だ。わたしも後ろから付いて歩き回ったのだが、婦人服は紳士服と違ってデザインも色彩もじつに豊富である。このような素敵な服を着た女性が街に溢れていたら、どんなに世の中は楽しいことだろうかと思った。一つ一つを念入りに見ると、デザイナーの工夫が偲ばれる。美的感覚に優れていないと気を引くものが作れない。わたしは最近絵画を描くようになったためか、構図や色彩に目が行くようになった。偏見があるかもしれないが、自分や他人の着る服に関心がないようでは、絵画は上達しないのではないかとさえ思う。
 美術クラブでも、美しい絵を描ける女性は美しい人が多いように感じる。美の追求が人生のワイフワークになっているのだろう。自分も化粧をして合致した服をまとい美しい女性でありたいし、自分の内面の感情もキャンバスに美しく描き出したいという一心なのだ。美こそ人生。なんと素晴らしいことなのだろうか。

 ショッピングを終えて、電車に乗って八代に帰ってきると、雨が降っていたが、フィットネスクラブに出かけることにした。最近は身体を柔らかくするストレッチと筋力増強の筋トレが面白い。まだ、クラブに通うようになって1か月足らずだが、少しだけ硬い身体が曲がるようになったと感じる。筋トレも負荷重量が増えて行くのは面白い。7つの筋トレマシーンで10回づつ、3セットやっている。楽と感じるマシーンは2.5キロづつ荷重を増やしていっている。限界はどこまで先にあるのだろうかと楽しみにしている。身体全体が逞しい筋肉で武装されていくような心地よい気分になる。でも、電車に乗ると席を譲ってもらうとき、複雑な気持ちになる。わたしは年寄りなのだろうか、それとも100キロを歩く超人なのだろうかと。

 ひと汗流して、帰宅すると、知り合いが新車の見積もりを持ってやってきた。わたしは運転しないが、運転手役の妻の気に入った車が決まった。トヨタのハイブリッド車のアクアにした。何回も販売店に足を運び試乗した後に、購買すべき車種が決まったのである。これで生活基盤がまた一つできたと言える。行動の範囲と機会がグンと増えることになるだろう。

 生活が第一である、と謳った政党があったが、まさにその通りである。仕事は生活に必要なお金を稼ぐ場でしかない。なるだけ多くのお金を楽して稼ぎたいのが人情であるが、どうせ拘束されるのであれば、自分の好みと能力に合ったものがいいに決まっている。でも、それが分からないのが課題である。多くの友達が定年退職のときに自分はこの仕事に合っていなかったので、ずいぶん苦労したとこぼしている。本当にそうなのかどうかは検証してみないと分からないが、人生は苦労はよく覚えているということなのかもしれない。
 他人と比較してはいけない。自分の人生は自分で切り開くしかないのだ。苦労も楽しみに変えていく柔軟な発想があるかどうかが多くのことを決するような気がする。
 今日一日はとても長かったが、でも充実していた。夢を抱いて前に進もう。

(2017年5月10日、寺岡伸章)
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所得ゼロの生活

 所得がなくなると、生活スタイルも変わってくる。親戚のおばさんは失業手当を申請すべきだと主張するが、失業手当は就職先を探している人が申請するものであり、もう働く気がない失業者が求めるものではない。実際には、手当欲しさに申請する者がいるが、そこまで卑屈にはなれない。プライドは守るべきと思う。お金よりも誇りが重要な場面もある。

 生活費は退職金や貯蓄から賄わなければならない。それも、年金支給が開始されるまで5年間(実際には誕生日までの4年半)を乗り切らなければならない。自分としては所得よりも健康な身体と芸術活動を選んだのだから文句は言えない。健康な身体はウォーキングとフィットネスクラブで獲得しようと思っているし、残された時間は芸術的な活動や観賞に使いたい。わたしの言う芸術活動には絵画だけでなく、小説書き、ブログ発信、読書、徒歩旅行、環境保護が含まれるし、神が身近にいた中世的なスローライフも含まれる。昼寝だってそのなかにカウントしてもよい。人間らしい生活ならば、何でも含まれると考えてよろしい。

 所得がないと生活態度は防衛的になる。極力無駄遣いはしなくなる。ビールだって、安ければ自転車を漕いで遠くのスーパーまで出かけるし、海外の食品生産物を避けて、国内産、できれば地元の産物に手が届く。地元で頑張っている生産者をつい応援したくなるのだ。もちろん食べ物を残すのはご法度であるし、毎朝、格安のモノはないかと、新聞のスーパーの広告に目を通すようになる。近所の農家や親せきからお裾分けが届くこともあるが、大歓迎である。それらへの返礼も必要になってくるが、貨幣経済だけが現代生活を支えるわけではあるまい。物々交換は心の交流という別のメリットもあるのだ。

 このような生活態度はけっして貧乏臭くなく、けっこう面白い。旬の滋養なものや廉価なものを工夫して選択できる楽しみもある。交通費も新幹線や特急を使わずに遠出できないかとネットで調べるようになる。鈍行列車や高速バスに乗れば、少々多くの時間を使うが、格安で目的地まで行くことができる。仕事上の付き合いがなくなったので、飲み会も少なくなった。出費が減るのはありがたいものだ。蛇口を捻ればお金が出て来た今までの生活とはずいぶん異なるが、所得ゼロでも精神的な窮屈さはない。やはり、気持ちの有り様が大きいと思う。お金はなければないなりに、どうにかなっていくものだ。所得の額に比例して生活が楽になり、幸せになるわけではないと身をもって知ることができる。
 貪欲になって嘘をついても失業手当を受けとろうとする精神ならば、どれほどお金という名の水を飲もうとも渇きを癒すことはできまい。消費生活はどのようにでも変化させることができるという、自信とゆとりが結果として豊かさをもたらすのではないのか。
 そのように感じた1か月だった。きづきや発見は面白いものだ。
(2017年5月1日、寺岡伸章)
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毎日が日曜日

 定年退職すると、時間は自由に使えるようになる。職場に拘束されることはなくなるため、毎日が日曜日である。
 人との会話の中で曜日を二度間違えてしまった。退職前は、月曜日から金曜日までを一つの塊と考え、週末の土日を解放された自由な時間帯として使っていたため、一定のリズムがあった。平日でも月曜日と木金曜日では気分も微妙に違っていた。それが一週間が平板になると、どうやってリズムを取るべきか少々戸惑ってしまう。
 そうかと言って、毎日時間を持て余しているわけではない。ウォーキング鍛錬、ブログ書き、フィットネスクラブ、ゴルフ、美術クラブ、買い物、昼寝等等やるべきと決めたことが毎日結構あって、せかせか気分になる。人生は限られているため、時間を無駄にしたくないという気分が強く、このようなことにしてしまっているのだろう。

「毎日が日曜日の生活」に慣れてしまってきたため、これが平日のように感じられてしまい、心身ともに休める日がないものかなと思ってしまう。特別の休日が欲しいものだ。まったく奇妙な現象である。でも、疲れているわけではないので、悪くはない。

 毎日5時前に起き、妻とともに1時間ほど速足で散歩する。妻が付き合うのは、1か月後に迫ったスペイン巡礼800キロ徒歩の旅を無事乗り切るための歩行力を身に付けるためである。早朝に新幹線架橋下のツツジの花の咲く歩道や自然の川べりを歩くのは気分爽快である。カモのカップルもいつも逃げることなく楽しげにエサを探している。新緑の緑は新鮮で、自然は豊かである。自宅に帰るころ、東の山波からお天道様が顔を出す。両手を合わせ、頭を垂れる。今日一日無事でありますようにと祈る。
 帰宅すると、NHKの外国語の番組を視聴することなる。スペイン語と英語は今夏のスペイン巡礼でコミュニケーション手段として使うので勉強しなければならない。新しい表現がなかなか覚えられないのが悔しいが繰り返し聴かなければならない。フランス語は来年フランスの田舎を歩くのに備えて耳を慣らすために聴くことにしている。ドイツ語は大学生時代の第二外国語として懐かしく聴いている、いくつかの単語や表現が記憶の底から蘇ってくるのは楽しい。イタリア語と韓国語はいつか役に立つことがあるかもしれないと思い、耳を傾けている。言葉は文化の基層をなすと言われるが、まさしくそうなのだ。その人の成り立ちが言葉に現れるように、言葉は文化を表現しているように思う。言葉の理解なくして、交流や相互理解は不可能だと思えてくる。そんな高尚なことを考えながらも、番組の進行速度は速く、毎日語学を学習するのは少々骨が折れる。

 その後は、読書やブログ書きで午前中を過ごす。昼食後はシエスタの時間帯だ。早起きであるため、このころになると身体が休みたいと声を上げる。昼寝は怠け者の習慣のように考えていた過去の自分が変に思えてくる。昼寝をすると身体の底から生命が蘇ってくるのが感じられる。大げさに言えば、至福の瞬間と言ってもいい。アングロサクソンはラテン系民族はシエスタするから発展しないのだと批判しているが、半分事実と認めても、だからこそ幸せな人々が多いのではないかとアングロサクソンを批判したくなる。シエスタの習慣を今から身に付けておくのはスペイン巡礼の徒歩に早く慣れるためにも悪くはないと言い訳したくなる。

 昼寝が終わると、フィットネスクラブに行って汗を流す。ストレッチで身体の柔軟性を上げることと、筋トレで姿勢を正し身体を屈強にすることを目指している。スイムやってフィットネスクラブを出るころにはすっきりした気分になる。
 フィットネスクラブに行かないときはゴルフのラウンドか練習に出かける。まだスコアは以前ほど良くはないが、ペースがつかめれば徐々に回復してくるだろうと期待している。

 夕食後はテレビを観たり、音楽を聴いたりして、リラックスした時間を過ごす。ニュースは余り熱心に観なくなった。世間がどのように変わろうが自分には大きな影響はないと思えるからだ。ニュースはそもそもメディアがビジネスのために人々を煽っているだけだと思うと、その手に乗るものかと思う。自分の時間を彼らのために使わせたくない。

 こうやって平和で平穏な時間が過ぎていく。仕事に熱中していたころの時代はしだいに遠のきつつある。もうしばらくすると、あれは夢か幻だったのではないかと思うようになるだろう。きっとそう思うに違いない。夢から覚めたのだと。

(2017年5月1日、寺岡伸章)
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豊かな視点

 自宅の庭の植木の剪定作業は思いのほか面白かった。大げさに言えば、自然を利用した芸術作品を作っているように感じた。次回の今秋には工夫をしてうまく剪定をやってみたいと思っている。

 自宅はブロック塀で囲まれているが、熊本地震の影響のためと思うがブロックがところどころセメントが剥げて手で持ち上げられるようになっている。接着剤役のセメントが用を足さなくなったのであろう。そのまま放置しておくと、崩れ落ちたりして人に害を及ぼす恐れがある。雨が上がった日を見計らって、セメントを使って補強することに決めた。

 幸い小屋にセメントの袋が残されていたので、それに水を加えてシャーベット状にしてブロックの接着材として使ってみた。経験がないので、勘を頼りにやるしかない。土いじりは子どものころにして以来だが、そのころの経験を元にセメントも同じようなものと割り切ってやるしかない。応急処置として間に合えばよい。

 家屋をリフォームした後で、苔が生え脆くなったコンクリート塀は作り直さないといけないと思っている。コンクリは冷たい感じを与え、生垣の方が温かみがあっていいのだが、維持管理に手間がかかるので、思案しなければならない。鉄格子の方がいいかもしれない。他の家も見て回り、住んでいる人の人柄が偲ばれる塀にしたいものだ。このような作業はけっして面倒なものではなく、如何に住むかという哲学に関わる問題でもあると思う。楽しい宿題と思って考えていきたい。

 自宅から東側に標高数百メートルのが見えるが、新緑の色が新鮮で輝いている。素晴らしい屏風が立てられているようにも見えないことはない。こんなに美しい故郷の緑を見るのは初めてだ。今日、東京に住んでいて一時帰省している友人と会っておしゃべりをしていたら、彼も同じことを言っていた。新緑が目に眩しいと。
 仕事のために上京し、新しい家庭をそこで作ったが、それで良かったのかどうか分からないとも語っていた。いい仕事を得ることと両親と一緒にずっと生活することのどちらが人生にとって価値のあることなのだろうか。これは個々人に向けられた課題である。

 東京一極集中はお金と名誉をエサに地方から多くの人材を引き抜いた結果である。成功を獲得した者は少ないと思うが、ほとんどの人は故郷を捨てて心底でどのように感じているのだろうか。故郷は遠くにいて想うだけで済むことなのだろうか。地方を過疎地帯にし、日本の活力を削ぐような政策はなぜ正当化され、是正されないのだろうか。東京生活は面白いと言うが、その実態はよく吟味された結果なのであろうか。

 故郷は懐かしいのみならず、美しい。もっと愛すれば、もっと輝いて見える。田舎には何もないとうそぶいているのは、想像力のなさを露呈しているようなものだ。けっして口にしてはいけない。見る角度を変えれば、故郷も田舎も違ったように見えてくる。東京も砂漠に感じられることがあるのはわたしだけではあるまい。感受性を大切にしたいものである。

(2017年4月27日、寺岡伸章)
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エンゲイジメント

 地元に戻って新しい楽しい生活を作っていくには、地域や人々と関わっていくことが肝要である。グループに参加すると、人々との心の触れ合いが生まれ、また人的ネットワークが広がっていく。そのような交流はお互いを元気付け、地域を活性化していく。個人レベルでも生き甲斐の場となり、健康長寿にもつながっていく。

 そんな理由から、いろいろなグループへ関与していくことに決めた。
 まず、地元のゴルフ場の会員となった。今は自家用車が入手されていないため、頻繁に行くわけにはいかないが、研鑽し合える良いゴルフ仲間を探していきたいと思う。また、近所のゴルフ練習場の会員となったため、平日は70分打ちっぱなしが500円(ビジターは550円)でできるようになった。廉価なので毎日のように行けるが、そうすれば間違いなく、打ちすぎて肘を痛めてしまうに違いない。せいぜい、週2、3回程度に抑えておかないと怪我をする羽目になろう。

 フィットネスクラブにも加盟した。自転車こぎ、ストレッチ運動、筋トレ、エアロビクス、水泳を楽しむことができる。体重を62キロまで落とすと同時に、身体の柔軟性を取り戻したい。わたしにとっては「日本」を取り戻すことよりも重要である。高尚なことは安倍首相ら政治家に任せていればよかろう。

 旧商店街が主催しているウォーキングラリーにも加盟した。長距離歩くと商品券がもらえるらしい。ウォーキングをやって健康になり、獲得した商品券で買い物をしてもらうことが狙いだそうだ。毎月のランキングが掲示板に発表されるが、最多者は80万歩クラスというのだからすごい。わたしは毎月70万歩くらいしか歩いてないので、さらにブースターを点火させる必要がある。100万歩まで到達できれば、一応目標は達成されたと考えてよかろう。

 また、高校のOBが主催するハイキングも毎月行われている。九州の山々は高度が高くないが、阿蘇、天草、霧島と変化に富む景色が楽しめそうだ。まだ、九州の山の神には挨拶していないことに気が付いた。生活が落ち着いたら、山に出かけよう。将来はこれらの山々に住むご先祖様になるのだから。

 地域コミュニティーセンターは地域活性化のために、スポーツや芸術活動を盛んに行っている。参加者は小中学生の子どもかリタイアした人々が大半を占めているという。わたしは、美術クラブ、洋式吹き矢、卓球の三つに参加することに決めた。卓球の参加者の多くは県内でベスト8に入る地元の中学生であるのだから、彼らから刺激を受けつつ上達していきたいものだ。足手まといになることは必至なのだけれども。毎月の会費は何種目参加しても720円というのだから極端に安い。これでも採算が取れているかどうか他人事ながら心配である。会員数はピークの500人から350人まで減少しているそうだ。やはり少子高齢化の影が襲っているのは間違いがない。

 市立博物館の友の会のメンバーにもなった。常設展と特別展が無料になるだけでなく、学術セミナーへの招待や学芸員随行の研修旅行にも参加できるそうだ。学芸員から歴史の知識を学びたいものである。
 市立図書館も書籍が充実している。会員カードを作って本をどんどん貸し出し、専門家の講演会や映画鑑賞会にも参加してみたい。図書館を使用し倒すのは魅力的なことだ。
 地元の文芸同人雑誌『綿木葉(ゆうは)』の会にも入会した。小説、評論、随筆を書いていきたい。仲間も良い人が多いので安心して発表できそうだ。都会のように競争に勝ちたい奴が多いところではないので、地方は気楽である。都会人からすると、だから地方はダメなのだと言われそうだが、人間の本質からいうと地方の方が正しくかつ楽しいと思う。

 このような色々な団体に加盟し、活動を広げていきたい。最初はその場のペースに合わせるが、慣れてくると自分の個性やペースを発揮したいものだ。スローでスタートし、少しずつ加速していきたい。

 話は変わるが、昨日市内で見つけたタイ料理店でランチを食べた。人口13万人の都市にタイ料理店があるのは意外だったが、日本人の味覚にあまり迎合しておらず美味しかった。予想に反せず、女性客が多いのは美味しいものを食べることに女性が執念を燃やしてことの証拠なのだろう。次回はゆっくりと夕食を摂りたいものだ。
(2017年4月25日、寺岡伸章)
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