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政治・経済

太った豚

 大隅東工大栄誉教授はオートファジーの研究成果でノーベル医学生理学賞を受賞した。大隅先生は東大で博士号取得後、教養学部で勤務していたが授業や実習の負担が大きく、研究に専念するために岡崎市の基礎生物学研究所に移籍したのだった。東大という称号にこだわらなかったのだろう。先にノーベル賞を受賞していた大村先生も東大に行っていたら、ノーベル賞受賞に到らなかったと言明している。理系の最高峰の頭脳が集まると言われる東大医学部はまだノーベル賞学者を輩出していない。それどころか、研究不正が疑われる論文が指摘され、現在調査中である。東大医学部の政治力をもってすれば、研究不正は限りなく白だったという調査結果が纏まると予想される。政治力の強さは科学力と反比例するのかもしれない。ノーベル賞受賞を夢見る少年は東大医学部を避けた方がいいかもしれない。いずれにしても、大学入学時の学力と創造力は関係がない。

 大隅教授は若い頃から中途半端な論文を書かないことで有名だった。論文数や被引用数が研究者の評価の基準となって久しいが、そのような俗的な関心がなかったのだ。ただ、オートファジーという生物機能の神秘を解き明かすことに全力を注いでいたのだった。当初酵母のオートファジーを追っていたが、それは酵母以外の生物でも起こっている普遍的な現象というのが分かり、今ではオートファジーがパーキンソン病の原因とまで言われるようになった。これらの成果の基礎は大隅先生を慕って結集した研究者達によって達成されたものだった。水島東大教授と吉森阪大教授は当時の大隅先生の愛弟子だった。

 大隅先生はオートファジー現象を何時間も観察していても疲れなかったと言うほど、研究の虫だった。大村先生も研究が大好きなばかりでなく、多くの学者を育てた伯楽でもあった。このような偉大な研究者達は心から尊敬できるし、本当に頭が下がる。おそらく学者の中でも稀有な存在なのだろう。

 それに比べて、そのような学者や大学を指導しなかればならない立場の文科省の役人は自己利益の追求と保身に溺れ、組織的な天下り斡旋に勤しんでいたとは情けない。人間の価値に、雲泥の差があるとはこのことだろう。指示すればほとんど何でも思い通りにやれる万能感に浸っていると、まわりがバカに見えてくるのだろうか。人間の本当の価値が分からなくなるとは権力とは恐ろしいものである。
 偉大な事業を行うには全身全霊で身を削る努力が必要なのだ。楽をしたり、権力を使って、成功に到る道はないし、それがあるとすれば、それは堕落・腐敗した道なのだ。自食作用でなく、自浄作用が欲しい。
 改めて、大隅先生と大村先生に敬意を表したい。

(2017年2月10日、寺岡伸章)
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価値を語れ

 学生時代の楽しかった思い出の一つは、八王子の大学共同セミナーに他大学の学生と泊まり込んで、夜遅くまで話し込んだことだ。テーマ毎に都内の学生が集い、指導教官の下で各自発表し合ったり、議論したりしたものである。地球環境問題やハイテクの未来などがテーマだったとかすかに覚えている。お酒を飲みながらの夜を徹しての議論はじつに楽しいものだった。このような経験は若者の特権であり、青春の貴重な思い出である。自分の専門に閉じこもることもなく、異なる学問分野の学生の友人を得たのは大きい財産だった。ここで知り合った人の中には、直木賞を受賞し大作家となった篠田節子氏、アルツハイマー研究の第一人者の一人になった理化学研究所脳科学研究センターの西道氏、NHKの東日本大震災の復興をフォローしているディレクターになったA氏などがいる。就職してからも、時々会ってはお互いに「啓発」したのをよく覚えている。

 「啓発」という言葉で思い出したのは、先の中国出張の際に中国科学院の幹部がわたしとの懇談の最後に、「啓発」という単語を使っていたのだった。建前にこだわらず国益を離れて本音で意見交換した態度が「啓発」という言葉に結実したのではないかと思う。両国の国益に関係なく、中国から優れた科学者が誕生することを心から願っている。科学は国境を超えた普遍的な文化である。会談後、心地よさを感じたのはわたしだけではなかったはずだ。

 創造的な仕事に携わる者にとって、啓発し合ったり、刺激を受けることは非常に大切である。自分が迷い込んでいる思考の壁をぶち壊してくれる可能性が高い。相手の異分野の視点で考えて、セレンディピティ(偶然の発見)に遭遇することもある。しかし、日本人は若者の間でさえ、師弟関係、先輩後輩関係、研究分野、所属組織の壁は厚く、お互いの真の交流を阻んでいる。参加の年齢の差が大きい会合でも、発言するのは高齢者ばかりであり、多くの場合、古い情報に基づいた既成概念からのコメントである場合がほとんどだ。本人は発言できて満足の様子だが、議論を活性化したり、若い参加者を啓発したりする場面は少ない。

 やはり、議論の雰囲気や場作りが大切だと思う。技術の進歩でプレゼンの手法も変わりつつある。従来発表が終わるのを待って質疑が行われるのだが、発表しつつも聴衆と双方向に議論を促進することができるようになった。発表者はプロジェクターを用いて発表するのだが、聴衆はプレゼンを聴きながらスライドにチャットを書き込める技術が開発された。テキストチャットの呼ばれるが、ニコニコ動画のチャットをイメージしてもらえば分かりやすい。発表者は横目でチャットを読みつつ、それに対しても口頭でコメントを追加すると一層高密度の意見交換ができるというわけだ。これであれば、学生や若い人でも気兼ねなく手元のPC経由でチャットできる。もう年配者に臆する必要はないのだ。この試みは大成功だった。おそらく、これが近未来のプレゼンの基本となる予感がする。

 これは科学者のセミナーだけでなく、国家の首脳の記者会見でも一般化されてくるに違いない。現在の記者会見は、発表原稿を読んだ後で、事前に記者から登録された質問に答える予定調和のスタイルであるが、それが崩れる可能性が高い。リーダーにとっては、不用意な発言で失脚するリスクになるが、より生々しいやりとりの展開は問題の本質に迫るきっかけになるだろう。政治家もハイテクを積極的に利用してもらいたい。

 本来議論は楽しいものであるべきだ。人工知能の発達で言語を超えた議論が行える環境が整えられつつある。グーグルは完成に近い日英翻訳技術を開発したとも伝えられる。そうなってくると自分は何を知っているかではなく、どんな価値を見出し、それを他者に広められるかどうかが鍵となる。価値観の発見が大切だ。

 世界は混迷を深めているように見えるが、それぞれの議論を一つ一つ吟味すると、人間にとってより重要な価値とはどれかを議論しているようにも感じる。テクノロジーの発展によりお互いの議論が深められ、新しい普遍的な価値へと収斂していくことを願う。お互いに信じている信仰を尊重する価値観の枠組み作りが必要なのだ。

 議論をさらに楽しもう。

(2017年2月9日、寺岡伸章)
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ノブレス・オブリージュ

 大学に入学した頃や役所に入省した時、ノブレス・オブリージュというフランス語をよく聞かされたものだった。「高貴さは義務を強制する」という意味だ。これは貴族やエリートの特権はそれを持たない人々への義務によって釣り合いが保たれるべきという発想である。第一次世界大戦において、英国の貴族の子弟の多くは進んで戦争に赴き、祖国のために命を落としている。貴族は平和時には特権を享受しても、いざという時には祖国にために命を懸けるくらいの覚悟がないと人々の尊敬を得ることはできない。現代のエリートにおいても、それは当てはまる。

 明治維新は祖国を憂う下級武士によって成し遂げられたという美談が色濃く残っている。そのような発想は勝ち残った勢力が歴史をそのように解釈しているのに過ぎない。勝てば官軍である。江戸幕府は敗れたがゆえに、世界情勢を知らない愚鈍な人々だったと後世に信じ込まされてしまった。
 薩摩や長州の下級武士出身者が権力の座に着くや、生まれは貧しいが優秀な人材が新政府の役人に任命され、権力を握ることとなった。その後、帝国大学が設立され、公務員試験が制度化されると、政府の官僚になることは出世街道の一つとして認知されるようになる。公務員試験は高文、上級試験、Ⅰ種試験と呼ばれたりしてきた。試験に合格すると、キャリアとして高速の出世エスカレータに乗ることができる。

 欧州と日本ではエリートの源の考え方がこのように異なる。欧州ではエリートは責任を伴う貴族から生まれたが、日本では優秀な庶民の立身出世の手段として機能したのだった。早い話が、日本の有名大学出身で国家公務員になった人々はノーブレス・オブリージュという価値観を持ち合わせていない。懸命に勉強し、毎晩遅くまで国家のために仕事をしたのだから、権力や名誉でも、処遇でも報われて当然だと言う感覚である。

 天下り批判が起こり、それを禁止するルールが決められたとしても、それを如何に形骸化し、天下りの甘い汁を吸うことしか考えていない輩だ。自己保身しか考えない貧者である。けっして貴族の心を持っていない。

 エリートは大学で十分な教育を受け、博士号を取得しているのが世界の常識である。博士号取得者は物事を冷静・客観的に分析し、今後何をなすべきかを論理的に導き出すことのできる知性ある人物であり、そのような優秀な人間が政府の要職や会社の経営者や学者として活躍できる資格があるとされている。
 しかし、日本だけが、政府の政策を担う人々は文科系の「低学歴」出身者である。これはグローバルな視点からいうと、極めて遺憾である。そのため、日本の行政はデータや事実に基づく分析に基づいて行われるのではなく、感覚的、流行的に判断される傾向が強い。雰囲気やご機嫌を伺う非科学的な要素が強い。ビッグデータの時代に大きく遅れている。

 今起こっている天下り醜聞の背景の暗闇は深い。誇りなきエリートが権力の魅力を知ったとき、魂は留まることなく腐敗し、堕落していく。貴族が一掃されてしまった日本に高貴な志を持つエリートの出現を期待するのは難しい。せめて、中途採用や政治任命にも枠を広げ、競争性を高めることで、優秀な人材の選定を行っていくべきではないのか。
 優秀な人材を得るための改革には、哲学と覚悟と時間がかかることを忘れてはいけない。

(2017年1月26日、寺岡伸章)
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熊本城(復興)マラソン

 2月19日開催の熊本城(復興)マラソン大会の出場要綱が送られてきた。本番まで1か月となり、練習量を充実さないといけないところなのだが、2週間前に風邪を引き、さらに乾燥している北京出張で悪化させてしまった。まだ風邪の症状が抜けきれないなか、昨日の土曜日に1時間走2本、今日は4時間走を終えた。解放感のお風呂と美味しいビールをいただいた。体調は元に戻っていないが、久しぶりに走れたことを素直に喜びたい。

 熊本県はわたしの故郷だが、熊本地震が起こらなければ熊本城マラソン大会に出場しなかっただろう。地震復興支援のために、被災者に元気を送りたいと還暦に関わらず走ることを決意した。ランナーも見学者も一体となって、復興を盛り上げたいものだ。行政面の支援は当然としても、地元民の復興支援を盛り上げようという気持ちが大切だと思う。残り4週間、きちんとトレーニングし、当日はベストの状態で、目標の5時間をどうにか切りたいと思っている。

 文科省を局長で退職し、2か月後に早稲田大学に就職した吉田大輔氏は天下りあっせんに違反するとして批判され同大学を辞職した。国家公務員法に違反する。吉田氏は官僚組織の中で、お神輿のように支えられ、快適な思い通りの役人人生を送ったと思われる。どうすべきか部下が適切に「指示」してくれるため、基本的にその方向に従っていれば役人として大きな間違いはしない。
 しかし、再就職に際しても、世の中は何でも自分の好都合に動くと思い込んでいたのではないのか。局長として、政治家や大学幹部や役所OBから無理難題の要求を突き付けられ、それをうまく処理することに腐心していたに違いない。そんな苦労をしたのだから、大学教授という平凡なポスト?を獲得したとしても世間は関心を示さないと油断していたのだろう。

 英国のEU離脱、トランプ米大統領登場は社会が持てる者と持たざる者に分断していることの象徴として現れた。金持ちや政治家や役人やメディアや学者などのエスタブリッシュメントは事実かどうかはともかくとしても社会正義に関心を持たず、自己の利益を追求しているという庶民の怨嗟の声は大きくなっている。英国も米国も社会の上層部と下層部の分断は激しい。これでは不安定要因になるため、安心で安定した社会を作るために両者の融和が必要なのだ。

 このような背景があるなかで、日本社会も階級に分断していくのか、それとも日本らしい一体感を保持できるかが注目されていた。そのように考えると、今回の天下り醜聞はエリート層の独断は許さないという社会の声と言えなくもない。官僚はエリート公務員として模範を示す必要があろう。

 くだんの吉田氏は人生最初の挫折となったが、まだ若い。これからの人生もまだ長い。熊本県出身者として熊本地震復興ボランティアに参画するという発想もありうる。生まれ変わったつもりで、今までのキャリアを一掃して再起を図ったらいかがだろうか。行政の支援が及ばず困っている人々は少なくない。それらの人々のために活動し、感謝される人生も悪くはない。上から目線の役人生活では得られない充実感も得られるのだろう。人生の価値観は多様なのだ。
 落ち込まず、頑張ってもらいたいものだ。

(2017年1月22日、寺岡伸章)
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ドン・ジョバンニ

 今秋、モーツアルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』を二度見る機会に恵まれた。最初は、東京都北区の北トピアのホールで鑑賞し、二度目はメトロポリタン・オペラの公演を映画館のスクリーンで観た。両者ともに3時間を超える公演なのだが、魅力的な音楽の作品に引き込まれあっという間に終了した。でも正直言って、画像よりも実物を鑑賞する方が迫力がある。モーツアルトのこの作品は一晩で書き上げたと言われるが、ストーリーの完成度は高く、様々な見方ができるものに仕上がっている。

 ドン・ジョバンニはスペインの好色貴族で、スペインは言うに及ばず、イタリア、ドイツ、フランスを放浪し女性と見れば誘惑する名人なのだが、最後は女性遍歴の罰としてか地獄に落ちてしまう物語だ。表面上は欲望のままに生きるならず者が死ぬという勧善懲悪だが、解釈は簡単ではない。

 作品の中で、ドン・ジョバンニが口説く女性は3人。まず、騎士長の娘のドンナ・アンナ。目当てのドンナ・アンナを夜這いして騎士長の館に忍び込むのだが、騎士長に見つかり、決闘の末にドン・ジョバンニは騎士長を殺害してしまう。ドンナ・アンナとその婚約者は復讐すべくドン・ジョバンニを追跡する。ただし、ドンナ・アンナはドン・ジョバンニに惹かれている心情をときおり歌で吐露する。
 二番目の女性は貴族のドンナ・エルヴィーラ。彼女はかつて捨てた女なのだが、偶然会って声をかけてしまう。エルヴィーラはドン・ジョバンニが女漁りをしていると分かっていても、ドン・ジョバンニが忘れられず追い求めてしまうのだ。後半の場面で、ドン・ジョバンニが殺人者と分かっても、愛おしく思い、同情してしまう女心の矛盾をうまく表現している。
 三番目は結婚式を挙げたばかりの村娘チェルリーナだ。誘惑に成功しかかるのだが、エルヴィーラに発見され邪魔をされてしまう。チェルリーナの夫マゼットは嫉妬し、ドン・ジョバンニを見つけて懲らしめようとする。チェルリーナは心の底では、ドン・ジョバンニが嫌いでないと見えるので、彼ら三角関係の展開も見物である。
 最終局面で騎士長の亡霊がやってきて、ドン・ジョバンニに悔い改めるように迫るのが、拒絶したため、ドン・ジョバンニは地獄へと落とされる。みんなが集まり、悪人に天罰が下ったと喜び幕が下りる。でも、彼らの心情は複雑である。

 これが大まかなストーリーである。ドン・ジョバンニはひたすら欲望に任せて、女狩りに精を出すが、男性の目からみると逞しく、素直に生きている羨ましい貴族に映る。登場する3人の女性から見ても、ドン・ジョバンニは浮気者と分かるのだが、一途に愛を語る姿に悪い気がせず、つい惹かれてしまっている。村娘のチェルリーナは憧れの貴族階級の仲間入りができるのではないかという不埒な動機が垣間見える。女にふしだらで人殺しという社会通念の観点はともかくとしても、登場する3人の女性はドン・ジョバンニを心から愛しているのだ。これらの矛盾を知り尽くしているモーツアルトは自由に生きるドン・ジョバンニの生き様を提示し、観客に評価を委ねているのではなかろうか。答えは単純でないため、ドン・ジョバンニが何百年もの間鑑賞されてきたのだろう。当時の貴族の息苦しい慣習に縛られ、生き様が行き詰まっていたとも考えられる。作品の初演から数年後に、フランスで市民革命が起こっている。ドン・ジョバンニは自由に生きる人間の賛歌でもあったにちがいない。

 ヒトは進化の過程でどうして二足歩行をするようになったのであろうか。森の点在するサバンナに生きるヒトにとって、二足歩行することはライオンやヒョウからのかっこうの良い餌食となりやすい。にもかかわらず、二足歩行を選択したのはそれよりも強い動機があったはずである。類人猿の最新の研究では、両手で食べ物をメスのところに運ぶなったのが二足歩行の理由と考えられている。オスが巣の中のメスと子どもに食料を与えるために、両手を使うようになったというのだ。新人類のヒトは頭脳が大きくなるにつれ、エネルギー価の高い肉食も食するようになった。ライオンやハイエナが倒した草食獣の硬い骨髄を割るために、自由になった両手で尖った石器を作るようになった。石器作りはうまくなり、しだいに集団で肉食獣も襲うようになったと考えられる。
 メスにとっては長い妊娠期間と未熟児のまま生まれてくる赤ん坊を育てるために、自分で狩りができないので誰かの保護下におかれる必要がある。メスにとっては、オスが必ず自分のところにやってくるという保証を確保する必要がある。オスの立場では、メスの産んだ子どもが自分の遺伝子かどうかを確証することが必要だ。他のオスの子どもであれば、オスは食料を運ぶ理由は消滅する。こうやってヒトのオスとメスは強く引き合ってきたと考えられる。

 これらのオスとメスの関係を利害から考えると、メスの方が深刻だ。メスは確実に食べ物を運んでくれるオスを見つける必要がある。そのようなオスは狩りの名人かまたは集団の上位のオスの方が都合がよい。オスは肉体的に強く、地位も高いほど頼りになる。肉体的な強さは剣術の強さであり、妊娠させる精力の強さであろう。高い地位は貴族がうってつけだ。
 こうやって、人間の動物的な側面を考えると、ドン・ジョバンニはサバンナに生きるヒトにとって頼りになるオスの象徴である。時代は下り、人間が文明を築いてきたといっても、人間の半分以上は動物の本姓を引きずっている。こうやって説明すると、ドン・ジョバンニがメス、いや女性に人気があるのは当然なことだろう。

 モーツアルトは科学者ではなかったが、人間の本性を見抜く能力を身につけていたのだろう。文明は高度になるにつれて人間関係を複雑にしてきた。人間の行動が先祖帰りするとき、革命や戦争が起こるのではなかろうか。ドン・ジョバンニは男女を問わず、何回も鑑賞されてきたが、それは原初的な男女の愛の営みであったからだと思う。男も女も愛とセックスが大好きである。
 オペラ『ドン・ジョバンニ』が見向きもされなくなったとき、人類の滅亡が始まるにちがいない。

(2016年12月12日、寺岡伸章)
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格差解消のための一夫多妻制

 日本の人口は減少に向かって突き進んでいる。社会は人口の増加を前提に成り立っているため、その減少は年金や医療制度を揺るがすとして懸念する声は多い。でも、それを止めるのは容易ではない。生物にとって食料確保と子孫を残すことは最大の目的であるように、子どもを作るかどうかは生物としての存亡にかかっているからだ。子どもを多く産むと大幅な減税の恩恵を与えるといっても人口はたいして増加しないだろう。子どもの有無はそれほどどう生きるかを左右する問題である。お金の問題もさることながら、子どもの世話に多大な時間が必要である。生物種であれば、当然割かなければならない時間であるが、人間にとってはそれを割かなければ莫大な自己の時間を手に入れることができるようになる。育児という大変面倒な仕事から解放される。これは自己の欲望を追求する者にとって非常にプラスになる、とも言える。
 子どもを持つことはその人間の存在にかかっているため、非常に根源的なものであり、政策によって左右できるほど容易な課題ではない。

 一方、資産格差は増大するばかりだ。かつて、社会科学は資産価格を是正するために累進課税や社会保障を提案していたのだが、それらの政策は景気を後退させたり、国家財政の赤字を拡大させるとして、効果がないし、また国民にも人気もない。経済成長が望めないなかで、所得の増加が見通せなければ、平均的な国民は社会進歩から残されていくばかりだ。資産格差を縮小する有効な手法もないように思われる。

 人口減少と格差の問題は根源的なものであるため、容易には解決しない。もしろ、それらの問題の根は深いところで同じであると考え、別々に処理するのではなく、一緒に扱った方がいいだろう。あらゆる政策が出動されたにも関わらず、人口減少の問題が解決しないのであれば、社会の規範を変えるほどインパクトの大きいことをしなければならないだろう。

 一夫一婦制は近代的であり、人間的な制度と信じられてきたが、この常識を疑ってみてはどうだろうか。そもそも一夫一婦制はキリスト教文化の影響を強く受けたものであり、他の文化圏でこれが常識というわけではない。イスラム文化圏では一夫多妻を認めているし、日本でも大名や商人は複数の妻を持つのが当然視されてきた時代もあった。縄文時代は乱婚であったのではないかという研究もある。集団で子どもを育てていたと考えられており、近親相姦を避け新鮮な血統を受け入れるためにも、集団間で若い女性が交換されていたのではないかという専門家もいる。ちなみに、ゴリラは一夫多妻性で、チンパンジーやサルは乱婚である。一夫一婦制は進化した文明の姿と言えるかもしれないが、野性味を欠く不自然な危ういルールと言えるのではなかろうか。

 人口減少と所得格差を同時に解消するために一夫多妻制を復活させてはどうだろうか。お金持ちは育児費用に困らないため多妻であれば、より多くの子どもを産み、育てることができる。若い女性の貧困は男性の草食化のためにまさに身体を売りたくても売れないために起こっているから、お金持ちの妻として迎えられた方がずいぶん幸せになるに違いない。自分の子どもを産むこともできる。所得の少ない男性は生存能力が低いと考えるならば、社会全体としては、お金持ちの遺伝子を自分の子どもに受け継がせた方が子どものために有利だろう。
 一夫多妻制になると男性同士の競争が激化されるために、富を巡る経済活動は活発になるに違いない。結婚できない男性は多く出現することになるが、そもそも草食化しているため、結婚できなくても不平は言わないだろう。結婚し子どもを産むことが1人前の大人だという社会観念から解放されるため、かえってそのような男にとっては楽になるかもしれない。

 一夫多妻制の復活は現在タブーである。文明とは人間の動物的な本能を抑え、理性的な判断と行動に基づいて構築された社会システムだ。でも、本能や感情を過度に抑圧していたために、種々の問題を引き起こしている。ストレスに関係する病気の多発、引きこもりはそれの典型的な例である。精神に関係する疾患や未病は増加している。肉体も精神も健常である者がむしろ少ない。

 近代文明の見直しが必要になってくるだろう。英国の離脱によるEUの綻びや、極右勢力(失礼な言い方だ)や衆愚民主主義(これも失礼な言い方だ)の広がりは近代的なシステムである文明の曲がり角に来ているように思える。先進国の人口は米国を例外(白人は減少に向かっている)とすれば、すべての国で起こっている。これは人間の社会への不適応を勇断に物語っている。住みにくく、子どもを産みにくい世の中なのだ。
 そういう意味において、人間の根源である子どもの生産に直結する制度までさかのぼって考え直してみないと、人類の生き残るための答えは得られないだろう。
 あえて、反発を覚悟で、一夫多妻の思考実験を行ったしだいである。

(2016年12月8日、寺岡伸章)
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