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政治・経済

豊穣な不知火海

「う、うち、は、く、口が、良う、も、もとら、ん。案じ、加え、て聴いて、はいよ。う、海の上、は、ほ、ほん、に、よかった」

 水俣病は経済至上主義による不知火海沿岸住民の生活の侵略であり、ジェノサイドであった。筆舌に尽くしがたい苦しみと恨みを抱いて死んでいった水俣病患者と今なお理不尽な生と戦っている患者の存在は文明病の象徴である。

『苦海浄土』の筆者の石牟礼道子は今年2月亡くなった。詩を書くのが大好きだった彼女は水俣病と出会わなければ、平凡な主婦としてその一生を終えていたであろう。でも、石牟礼が語るように、彼女は語ることのできない死者や患者に捕まって、彼らの目に見えないもの、語り難いものを言葉で表現していった。

 水俣病の全貌はまだ解明されていないが、水俣病は近代化の醜い面を暴き出した。会社は原因が分かっていた排水を海に放出し続けた。行政はなかなか動こうとしなかった。市民は患者を辱め、差別し、忘れようとした。会社が潰れれば、水俣は黄昏の闇になるとチッソを擁護した。

 会社も行政もメディアも患者の病態のみに注視し、その魂には関心が向かない。私たちは群れると真実が見えなくなる。誰もが会社や行政の幹部であったならば、同じ振る舞いをしていたであろう。私たちはシステムの一員として存在しているからだ。何事でも真実を知りたければ、個になる必要がある。孤独を恐れてはならない。

 会社をモンスターにしたのは、私たちが豊かさと便利を求めているがためである。そういう意味では私たちはもう一人のチッソだった。

 患者の一部は激高し、「チッソの社長や幹部、さらにはその家族に工場廃液を飲ませて、水俣病にしてやる。同じ苦しみを味わわせてやる」と叫んだ、それは言ってはならない悪霊の言葉だった。無辜の民をここまで追いやった正体はいったい何なのか。冷静に見れば、社長も凡人で、普通の家族を持っているに過ぎない。けっして悪人ではない。

 患者は当たり前に生きることを閉ざされた。心を通わせて生きることを奪われた。たった一枚の桜の花びらを拾うのが患者の望みだった。苦しみと恨みに心を支配されていても、それでも彼らは「世界は美しい」と石牟礼に語らせた。

 石牟礼は豊穣で、美しい不知火海沿岸の人々を書き続けた。いのちの意味を問い続けた。生命、自然、歴史とのつながりを大切にしようとした。自然や患者とつながっていると感じた瞬間、人は他者に起こった出来事を我が事として考えるようになる。石牟礼が命を懸けた文学の意義はここにあったのではなかろうか。

 ある患者は「許すことにしました」と語る。「人を憎むのは心身によくない。チッソも私たちを蔑んだ人々も許します。全部引き受けます、私たちが」

 この人こそ、来世は観音様か仏様に生まれ変わるに違いない。

 「水俣病患者の存在が水俣を暗くしている」と嗤っていた看護婦たちは中年期になると、手の自由の効かなくなり、水俣被害者手帳を持つ羽目になろうとは想像だにしなかった。現在、水俣市民の50歳以上の半数以上は被害者手帳を持っている。水俣病は終わっていない。

「魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい」

 水俣病発生の前の漁師の言葉である。私は水俣病患者のためにも、浄土であるこの世を一瞬たりとも無駄にせず生きていきたい。

 有機水銀を含んだヘドロの海を埋め立てた親水公園に立つと、恋路島の向こうに静かな八代海と天草の島々が見えた。八代海の底ではゆうひらと言う真水が海に栄養を与えていて、「魚湧く海」とも呼ばれている。そこには今でも美しい竜宮城が広がっているに違いない。(了)

リベラリズムの源泉

 北スペインのカトリック巡礼路をサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂を目指して、何週間もかけて歩く旅は大変楽しい。天然の緑の山々を縫うように歩いたり、涼しい風を運んでくれる光り輝く大西洋を眺めたりすると、心が晴れてくる。

 道中は世界中からやってきたオープンマインドの巡礼者とすぐに友達になることができる。地元の人々も巡礼者に敬意を払ってくれて、しかも親切である。スペイン料理は美味しく、赤ワインは廉価だ。まさに私にとって巡礼路はこの世で最も天国に近い場所だろう。

 他の巡礼者との会話は非常に楽しい。発想の違いが心地よい。でも、内容が深くなっていくに従い、ヨーロッパ文化の知識の決定的な不足を痛感させられる。ギリシア文化を源流とし、キリスト教の世界観を基盤にヨーロッパ学が興り、それらの学問に基づいて現代社会が作られている。科学、医学、社会学、法学、経済学、哲学などを見れば、明らかである。日本のみならず世界の非西欧国の近代化もとりもなおさず西欧化と呼んでも差し支えなかろう。

 現代政治の二大潮流は保守主義とリベラリズムと言ってもよい。一般に保守主義はその国や地域の伝統・文化を護ることを重視する価値観であり、リベラリズムは理性主義や理想主義を基礎とする価値観と信じられている。保守主義はキリスト教、仏教などの宗教を大切と信じる人々や地域の利益を優先する勢力がその支持者であり、リベラリズムはカントやヘーゲルなどの哲学に根差す理性主義を優先する勢力がその支持者であろうか。このような分類の仕方に疑問を投げかける考え方があることを私は最近知った。

 カトリックが支配していた中世ヨーロッパで、マルティン・ルターがローマ教皇の発行する「贖宥状(免罪府)」に疑問を持ち、「聖書に戻れ」と呼び掛けて、宗教改革が起こり、プロテスタントが形成されていく。しかし、聖書の解釈を巡って、プロテスタントは伝統重視の旧プロテスタントと個人の自由な判断や決定を重んじる新プロテスタントに二分されるようになる。後者の新プロテスタントの発想や勢力が現在のリベラリズムの源泉というのだ。大西洋を渡ったピューリタンと呼ばれる人々はその例である。彼らは国家や政治的支配者に依存しようとしないため、教会や大学さえ自分らの力で作ってきた。

 リベラリズムはカントやヘーゲルさらにはマルクスの思想的潮流に依存するという従来の発想はここにはない。それらのどちらが正しいかを判断する能力は私にはないが、非常に面白い発想だと思う。

 一方、日本のリベラリズムはカントやヘーベルらの理性主義に則っているように見える。欧米のリベラリズムの源泉と根本的に捉え方が違うのかもしれない。リベラリズムは日本社会に根着かないと言われて久しいが、もしかしたらこのようなところに原因があるのではなかろうか。政治的信条は頭で考える理性主義ではなく、心の中から生まれる価値観なのだから

第三次世界大戦

 北朝鮮の金正恩と米国のトランプの言葉による非難の応酬は激しくなるばかりだ。メディアは掛け合い漫才の次元で報道しているように見えるが、意外に両者は本気なのではなかろうか。太平洋で水爆実験が行われるかどうか分からないが、行き違いで戦争になる可能性は増していると思う。過去の世界大戦がそうであったように、局地戦から世界中を巻き込む戦争に急拡大していくこともありうる。

 こんな重大な時、勝てる可能性があるからといって総選挙を行うのはどうしたものだろうか。政治家が考えることはよく分からない。国民の平和と財産を守っていこうという気概に欠ける。

 戦争という一大事になると、自衛隊の戦闘能力、地方自治体の防災体制に依存することになるが、国民も自分の身は自分で守ると言う気概が必要になってくる。
北朝鮮の戦闘機がわが町を爆撃してきたら、防空壕に入らなければならないが、その防空壕が整備されていない。都市から爆撃機がやって来そうもない山林地帯に避難しなければならない。九州であるならば、九州中央の五家荘あたりになるのだろうか。でも、みんな似たようなことを考えるので、狭い道は渋滞し、目的地まで到達しそうもない。疎開できたとしても、食料はどうやって補給できるのか。色々考えると、どうもうまく行くようには思えない。

 海外逃避はどうだろうか。やっと搭乗した飛行機は落とされる可能性があるし、混雑する空港が爆撃機の恰好の標的になる可能性は大だ。海外への逃亡を狙うのであれば、まだ戦争が始まらない今しかないかもしれない。数か月間、あちこちの国に期限一杯滞在するのだ。物価が安いタイ、ラオス、カンボジア、ミャンマーあたりが候補になるだろうか。でも、これもそれなりにお金がかかるし、第一今生きている現場を離れて自由になれる人は少ない。

 結局、今住んでいる場所でどうにか乗り切るしかない。財産は失ったとしても、命を守らなければならない。

 世界規模の核戦争にまで進展すると、野外は放射能が大量に降り注ぐため、フィルター付きの堅牢なシェルターの中で2週間過ごさなければならない。そのようなシェルターはどこにあるのだろうか。旧坑道にでも逃げ込むしかない。ここも定員ですぐいっぱいになるだろう。
 原爆のプルームで地球上が厚い雲に覆われれば、厳冬がやってくるに違いない。それはどの程度続くのだろうか。数か月か、数年か。その間どのようにして生き延びることができるのか。

 暗澹たる気持ちになる。生き残られる可能性は限りなくゼロに近い。
 しかし、発生する事態に迅速に対応するため、思考実験だけは行っておきたい。食料の確保、耕す畑の目安くらいは事前に行っておきたいものだ。

 戦争が起きないことを毎日祈ろう。静かな気持ちになって。

(2017年9月27日、寺岡伸章)
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民主主義と人工知能

 民主主義は歴史的教訓から見て、もっとも人間的な政治制度だと考えられている。
 バカ殿のような決断しない政治や独裁者の圧政に苦しんだり、搾取されたりする悪政は人間支配の悪だと思われている。一般庶民の願いが叶えられるボトムアップ型の民主主義こそ理想に近いと信じられている。
 しかし、味方によっては民主主義こそ怖いシステムはない。独裁者ヒットラーを生んだのは民主主義そのものである。民衆は移ろいやすい。理性を失い熱くなると国家を破滅へと導く恐れを孕んでいる。

 人間に我欲があるように民衆は自己中心的だ。税金は払いたいくないと常日頃思っていて、年金は多い方がいいと考える。近くに良い病院や保育園があれば良いと要望するが、それらを成り立たせる財政的問題を考慮することはない。それらは政治家や行政マンの仕事だと割り切り、深く考えようとしない。民衆の要望は多分に他力本願的ある。

 人間が矛盾に満ちているように政治も魔物である。北海道の夕張市は財政破綻し、市民生活はどん底に落ちたと信じられていたが、内実そのような簡単なことではないらしい。市民病院のベッド数は10分の1に減少し、公園等の公的空間の環境整備はできなくなった。これらは市民の要望であったが、それらができなくなり、市民は不幸になったのだろうか。そうでもないのが面白いところだ。

 病院のベッド数が激減したため、健康の確保は市政や医者に頼るものではなくなり、自分たち自らが獲得していくべきものという意識が芽生え、運動を増やしたり、体を動かしたりすることが増えた。その結果健康になる者が増え、医療費が少なくて済むようになった。市政のサービスが落ちると、市民の自立心が生まれるのだ。
 環境整備費が削減されると、市民はボランティアで環境の景観を守ろうと活動し始めた。ボランティア活動は市民の連帯感を醸成し、体を動かすことで健康体を確保しやすくなった。

 政治はアイロニーである。民衆はわがままなため、政治に多くを望むが、それらが実現されないと分かると、自らが発起して動き出すのである。なければないなりに、どうにかなるのだ。ここに民主主義の限界がある。民主主義という制度は自己を正当化するために、非民主主義制度の悪い事例を引っ張り出すのだが、独裁者であっても善政を行った名君は少なくない。選挙で選ばれようが、親から引き継がれようが、為政者の能力に依存するのだ。民衆の要望を何でも叶えてあげるような政治は必ずしも善い政治とは限らない。ここにマニュフェスト型選挙の限界も見えてくる。

 政治家は人気取りしないと選挙に選ばれないから仕方がないが、いっそのこと、政治家をすべて人工知能で置き換えてみたらどうだろうか。人工知能は人間の情念や欲望を考慮することなく、合理的な判断を下すことができる。病院のベッド数を増やすと、長期的にどのような事態を招くかを膨大なデータを分析して予測することができる。天才棋士の数倍先を読むことができるように、人工知能は政策の社会へとインパクトを的確に判断することができる。財政規律を守れと人工知能に命じれば、その範囲で市民サービスの優先度を決断してくれる。役人はそれに従って働くだけでいい。政治家がいなくなれば、納税額も随分少なくて済むようになろう。

 人工知能は極端な排他主義やグローバリズムに走ることはなかろう。民衆を甘やかすこともなく、かつ搾取を厳しくすることもなかろう。人間の行動原理を読み、自主性を引き出し、市民が生き甲斐を持てる社会を実現してくれるはずである。政治家は民衆の欲望の権化のようなものではなかろうか。
 高齢者の暴走運転は人工知能による自動運転が解決してくれるように、政治も人工知能によって合理的に行われるような日がやってくるかもしれない。少なくとも技術的にはそれらは可能になりつつある。

 そのような事態に直面したら、人間はどのように判断するのであろうか。人工知能に政治を任せるのか、それとも従来通り自らの化身として政治家を選び、欲望の実現を代行させようとするのか。
 人間は小説、映画、ドラマが好きなように、物語から離れられない。劇場政治であろうが、アベノミクスであろうが、政治もまた一種の物語である。物語を放棄してまで、政治を人工知能に委託してしまうのかどうか。その答えは数十年以内に見えてくるに違いない。人間の正体が暴かれる日は近い。

(2017年8月21日、寺岡伸章)
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証言

 文科省の前川前事務次官が加計学園の獣医学部計画を巡り、「総理の意向」の文言が含まれた記録文書が存在していたと記者会見で証言した。松野文科相と文科省は文書の存在を否定しているので、真逆の主張となっている。どちらが本当か。誰が見ても、前川前次官の方だろう。

 前川前次官がなぜこのような証言をしたのかは分からない。薄弱な根拠で規制改革が行われ、公正であるべき行政の在り方が歪められたと述べているが、それが「捨て身」の覚悟で記者会見をした一番の理由と断定することはできないが、正義感の強い人だけに、そのような意向が強く働いたとも推察できる。
 今後の安倍政権の運営にどのような影響が生まれるか予測できないが、この記者会見で前川氏の天下りは完全になくなったと言える。天下り斡旋問題で引責辞任したが、ほとぼりが冷めれば、どこかに再就職先を見つけることができたはずだ。その可能性はなくなった。権力は冷徹である。許さないだろう。

 このような政権や政治家から行政への要請や場合によっては圧力とも受け取られかねないものがあるのが現実である。どの役所も役人もそれは避けられない現実として受け止め、その影響を極小化したり、時によってはそれを利用して組織を大きくしたり、あるいは自分の立身出世に利用したりしている。公正で公平な理想的な行政を行いたいと思っている役人にとっては辛く、耐えられないことになる。一方で、政治家の要請をうまく利用する役人にとってはうま味のあることとなる。政治家と役人は持ちつ持たれつの関係であるからだ。
 そういう意味では、今回の要請は特別のものではないのだが、前川前次官の個人的信念が突き動かし、行動に出たのだと思う。官邸に引責辞任を迫られたことに対する腹いせであるとは思わないし、ましてや安倍政権を揺るがすつもりもないだろう。正義の人なのだ。

 このような政治家と役人の関係はけっしてなくならない。それは民主主義の抱える欠点だからだ。政治家は選挙で勝たなければならないが、それには多くの国民から支持されることがマストだ。国民はマニフェストを読んで、より良い政治を行ってくれそうな候補者を選ぶものという前提があるが、実際は国民は自己の利益に叶う候補者に投票している。投票の見返りとして、政治家に行政に働きかけてもらいたいと考える国民がいてもおかしくはない。政治家の立場からすると、理想的な政治を行いたいと思いつつも、次の選挙に勝たないことには政治家のポストが維持できないので、しだいに国民や知人の要請に耳を傾けることになってしまう。民主主義の制度設計上、避けられないことだ。国民は聖人ではなく、政治家同様に欲望の塊だからだ。

 前川次官は総理の意向が記された文書の取り扱いを巡り、忸怩たる思いだった。そして、記者会見により政治と行政の関係が表面化したのだ。忸怩たる思いで仕事をやっているのは役人だけではあるまい。会社の社員も上司から道理に合わないことをやらされ、悩みながらも家族のためと我慢しながら生きている人も多かろう。多かれ少なかれ、世間で生きると言うのはそういうことなのだ。人々は常に板挟みの状態でもがき苦しんでいる。だからと言って、我慢できなかった前川前次官の証言を批判するつもりは毛頭ない。それは彼の人生の選択である。耐える人やそれを逆手にとって人生を乗り切る人もいるが、おかしい、許せないとして事実を告発する人もいる。どちらが正しい選択とは言い切れない。人生には多様な選択があっていいと思う。

 今年3月まで文科省職員の身分で文科省傘下の法人で働いていたわたしとしては、定年退職後再就職せず、そのような世間とは一線を画し、もっと自由で美しい生き方をすることに決めた。俗世間は煩わしい。
 資本主義は人間をお金の奴隷にしてしまうから嫌いだ。民主主義は政治家を劣化させるから嫌いだ。でも、資本主義も民主主義もなくてはならないシステムなのだ。それが現実だ。
 ただし、その現実を一皮めくると、異なった様相をしたリアリティ(実存)が立ち上がるのではないかと一縷の望みを抱いている。そのヒントは、芸術であり、旅であり、人々の絆である。これらを通じて、世間と関りをもって生活をしつつも、生き甲斐を感じられれば、地球上で生きていける。その可能性に挑戦をしたい。

 スペイン巡礼の旅まで1週間になった。心の半分は日本にない。どのような出来事があり、出会いがあるか不安と期待が入り混じっている。これも人生のダイナミックである。

(2017年5月26日、寺岡伸章)
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生活が第一

 定年を迎え仕事を辞めると、暇になると思っていたが、そうではないことが分かってきた。毎日の生活を送るうえで、結構忙しいのだ。
 昨日は電車に乗って、熊本市のデパートまで買い物に行った。ゴルフウェアのパンツ、半そでシャツ、アンダーウェアを買ったのだが、最終的な選択に行き着くまでどれが似合うかと妻と話し合いが続く。どれもこれも欲しいのだが、それなりの色とデザインのものに落ち着いた。
 今まで試着は面倒と思っていたが、やってみると面白い。ショッピングも楽しめるようになれそうだ。生活を充実させるための重要な要素であるにちがいない。仕事で何かを生み出すこととは異なる世界がそこにはある。仕事が価値があり、ショッピングは単なる消費にすぎないとは思えなくなってきた。それにしても、購入した3点の商品の価格はゴルフ会員権よりも高価であるのは複雑な気分だった。ゴルフは大衆のスポーツになったけれど、ファッション業界は新しいデザインと素材を創造し続けているということなのだろうか。

 わたしの買い物が終わると、妻の服を買うべく、婦人服売り場に向かった。妻のショッピングはまずフロワァー全体を一周して見渡し、その後気になったお店に入って自分のお気に入りのものを探し出そうというやり方だ。わたしも後ろから付いて歩き回ったのだが、婦人服は紳士服と違ってデザインも色彩もじつに豊富である。このような素敵な服を着た女性が街に溢れていたら、どんなに世の中は楽しいことだろうかと思った。一つ一つを念入りに見ると、デザイナーの工夫が偲ばれる。美的感覚に優れていないと気を引くものが作れない。わたしは最近絵画を描くようになったためか、構図や色彩に目が行くようになった。偏見があるかもしれないが、自分や他人の着る服に関心がないようでは、絵画は上達しないのではないかとさえ思う。
 美術クラブでも、美しい絵を描ける女性は美しい人が多いように感じる。美の追求が人生のワイフワークになっているのだろう。自分も化粧をして合致した服をまとい美しい女性でありたいし、自分の内面の感情もキャンバスに美しく描き出したいという一心なのだ。美こそ人生。なんと素晴らしいことなのだろうか。

 ショッピングを終えて、電車に乗って八代に帰ってきると、雨が降っていたが、フィットネスクラブに出かけることにした。最近は身体を柔らかくするストレッチと筋力増強の筋トレが面白い。まだ、クラブに通うようになって1か月足らずだが、少しだけ硬い身体が曲がるようになったと感じる。筋トレも負荷重量が増えて行くのは面白い。7つの筋トレマシーンで10回づつ、3セットやっている。楽と感じるマシーンは2.5キロづつ荷重を増やしていっている。限界はどこまで先にあるのだろうかと楽しみにしている。身体全体が逞しい筋肉で武装されていくような心地よい気分になる。でも、電車に乗ると席を譲ってもらうとき、複雑な気持ちになる。わたしは年寄りなのだろうか、それとも100キロを歩く超人なのだろうかと。

 ひと汗流して、帰宅すると、知り合いが新車の見積もりを持ってやってきた。わたしは運転しないが、運転手役の妻の気に入った車が決まった。トヨタのハイブリッド車のアクアにした。何回も販売店に足を運び試乗した後に、購買すべき車種が決まったのである。これで生活基盤がまた一つできたと言える。行動の範囲と機会がグンと増えることになるだろう。

 生活が第一である、と謳った政党があったが、まさにその通りである。仕事は生活に必要なお金を稼ぐ場でしかない。なるだけ多くのお金を楽して稼ぎたいのが人情であるが、どうせ拘束されるのであれば、自分の好みと能力に合ったものがいいに決まっている。でも、それが分からないのが課題である。多くの友達が定年退職のときに自分はこの仕事に合っていなかったので、ずいぶん苦労したとこぼしている。本当にそうなのかどうかは検証してみないと分からないが、人生は苦労はよく覚えているということなのかもしれない。
 他人と比較してはいけない。自分の人生は自分で切り開くしかないのだ。苦労も楽しみに変えていく柔軟な発想があるかどうかが多くのことを決するような気がする。
 今日一日はとても長かったが、でも充実していた。夢を抱いて前に進もう。

(2017年5月10日、寺岡伸章)
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