メルマガ登録

 
2017年10月
« 9月    
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031  
twitter
facebook

政治・経済

第三次世界大戦

 北朝鮮の金正恩と米国のトランプの言葉による非難の応酬は激しくなるばかりだ。メディアは掛け合い漫才の次元で報道しているように見えるが、意外に両者は本気なのではなかろうか。太平洋で水爆実験が行われるかどうか分からないが、行き違いで戦争になる可能性は増していると思う。過去の世界大戦がそうであったように、局地戦から世界中を巻き込む戦争に急拡大していくこともありうる。

 こんな重大な時、勝てる可能性があるからといって総選挙を行うのはどうしたものだろうか。政治家が考えることはよく分からない。国民の平和と財産を守っていこうという気概に欠ける。

 戦争という一大事になると、自衛隊の戦闘能力、地方自治体の防災体制に依存することになるが、国民も自分の身は自分で守ると言う気概が必要になってくる。
北朝鮮の戦闘機がわが町を爆撃してきたら、防空壕に入らなければならないが、その防空壕が整備されていない。都市から爆撃機がやって来そうもない山林地帯に避難しなければならない。九州であるならば、九州中央の五家荘あたりになるのだろうか。でも、みんな似たようなことを考えるので、狭い道は渋滞し、目的地まで到達しそうもない。疎開できたとしても、食料はどうやって補給できるのか。色々考えると、どうもうまく行くようには思えない。

 海外逃避はどうだろうか。やっと搭乗した飛行機は落とされる可能性があるし、混雑する空港が爆撃機の恰好の標的になる可能性は大だ。海外への逃亡を狙うのであれば、まだ戦争が始まらない今しかないかもしれない。数か月間、あちこちの国に期限一杯滞在するのだ。物価が安いタイ、ラオス、カンボジア、ミャンマーあたりが候補になるだろうか。でも、これもそれなりにお金がかかるし、第一今生きている現場を離れて自由になれる人は少ない。

 結局、今住んでいる場所でどうにか乗り切るしかない。財産は失ったとしても、命を守らなければならない。

 世界規模の核戦争にまで進展すると、野外は放射能が大量に降り注ぐため、フィルター付きの堅牢なシェルターの中で2週間過ごさなければならない。そのようなシェルターはどこにあるのだろうか。旧坑道にでも逃げ込むしかない。ここも定員ですぐいっぱいになるだろう。
 原爆のプルームで地球上が厚い雲に覆われれば、厳冬がやってくるに違いない。それはどの程度続くのだろうか。数か月か、数年か。その間どのようにして生き延びることができるのか。

 暗澹たる気持ちになる。生き残られる可能性は限りなくゼロに近い。
 しかし、発生する事態に迅速に対応するため、思考実験だけは行っておきたい。食料の確保、耕す畑の目安くらいは事前に行っておきたいものだ。

 戦争が起きないことを毎日祈ろう。静かな気持ちになって。

(2017年9月27日、寺岡伸章)
12345 (まだ評価されていません)
読み込み中 ... 読み込み中 ...

民主主義と人工知能

 民主主義は歴史的教訓から見て、もっとも人間的な政治制度だと考えられている。
 バカ殿のような決断しない政治や独裁者の圧政に苦しんだり、搾取されたりする悪政は人間支配の悪だと思われている。一般庶民の願いが叶えられるボトムアップ型の民主主義こそ理想に近いと信じられている。
 しかし、味方によっては民主主義こそ怖いシステムはない。独裁者ヒットラーを生んだのは民主主義そのものである。民衆は移ろいやすい。理性を失い熱くなると国家を破滅へと導く恐れを孕んでいる。

 人間に我欲があるように民衆は自己中心的だ。税金は払いたいくないと常日頃思っていて、年金は多い方がいいと考える。近くに良い病院や保育園があれば良いと要望するが、それらを成り立たせる財政的問題を考慮することはない。それらは政治家や行政マンの仕事だと割り切り、深く考えようとしない。民衆の要望は多分に他力本願的ある。

 人間が矛盾に満ちているように政治も魔物である。北海道の夕張市は財政破綻し、市民生活はどん底に落ちたと信じられていたが、内実そのような簡単なことではないらしい。市民病院のベッド数は10分の1に減少し、公園等の公的空間の環境整備はできなくなった。これらは市民の要望であったが、それらができなくなり、市民は不幸になったのだろうか。そうでもないのが面白いところだ。

 病院のベッド数が激減したため、健康の確保は市政や医者に頼るものではなくなり、自分たち自らが獲得していくべきものという意識が芽生え、運動を増やしたり、体を動かしたりすることが増えた。その結果健康になる者が増え、医療費が少なくて済むようになった。市政のサービスが落ちると、市民の自立心が生まれるのだ。
 環境整備費が削減されると、市民はボランティアで環境の景観を守ろうと活動し始めた。ボランティア活動は市民の連帯感を醸成し、体を動かすことで健康体を確保しやすくなった。

 政治はアイロニーである。民衆はわがままなため、政治に多くを望むが、それらが実現されないと分かると、自らが発起して動き出すのである。なければないなりに、どうにかなるのだ。ここに民主主義の限界がある。民主主義という制度は自己を正当化するために、非民主主義制度の悪い事例を引っ張り出すのだが、独裁者であっても善政を行った名君は少なくない。選挙で選ばれようが、親から引き継がれようが、為政者の能力に依存するのだ。民衆の要望を何でも叶えてあげるような政治は必ずしも善い政治とは限らない。ここにマニュフェスト型選挙の限界も見えてくる。

 政治家は人気取りしないと選挙に選ばれないから仕方がないが、いっそのこと、政治家をすべて人工知能で置き換えてみたらどうだろうか。人工知能は人間の情念や欲望を考慮することなく、合理的な判断を下すことができる。病院のベッド数を増やすと、長期的にどのような事態を招くかを膨大なデータを分析して予測することができる。天才棋士の数倍先を読むことができるように、人工知能は政策の社会へとインパクトを的確に判断することができる。財政規律を守れと人工知能に命じれば、その範囲で市民サービスの優先度を決断してくれる。役人はそれに従って働くだけでいい。政治家がいなくなれば、納税額も随分少なくて済むようになろう。

 人工知能は極端な排他主義やグローバリズムに走ることはなかろう。民衆を甘やかすこともなく、かつ搾取を厳しくすることもなかろう。人間の行動原理を読み、自主性を引き出し、市民が生き甲斐を持てる社会を実現してくれるはずである。政治家は民衆の欲望の権化のようなものではなかろうか。
 高齢者の暴走運転は人工知能による自動運転が解決してくれるように、政治も人工知能によって合理的に行われるような日がやってくるかもしれない。少なくとも技術的にはそれらは可能になりつつある。

 そのような事態に直面したら、人間はどのように判断するのであろうか。人工知能に政治を任せるのか、それとも従来通り自らの化身として政治家を選び、欲望の実現を代行させようとするのか。
 人間は小説、映画、ドラマが好きなように、物語から離れられない。劇場政治であろうが、アベノミクスであろうが、政治もまた一種の物語である。物語を放棄してまで、政治を人工知能に委託してしまうのかどうか。その答えは数十年以内に見えてくるに違いない。人間の正体が暴かれる日は近い。

(2017年8月21日、寺岡伸章)
12345 (まだ評価されていません)
読み込み中 ... 読み込み中 ...

証言

 文科省の前川前事務次官が加計学園の獣医学部計画を巡り、「総理の意向」の文言が含まれた記録文書が存在していたと記者会見で証言した。松野文科相と文科省は文書の存在を否定しているので、真逆の主張となっている。どちらが本当か。誰が見ても、前川前次官の方だろう。

 前川前次官がなぜこのような証言をしたのかは分からない。薄弱な根拠で規制改革が行われ、公正であるべき行政の在り方が歪められたと述べているが、それが「捨て身」の覚悟で記者会見をした一番の理由と断定することはできないが、正義感の強い人だけに、そのような意向が強く働いたとも推察できる。
 今後の安倍政権の運営にどのような影響が生まれるか予測できないが、この記者会見で前川氏の天下りは完全になくなったと言える。天下り斡旋問題で引責辞任したが、ほとぼりが冷めれば、どこかに再就職先を見つけることができたはずだ。その可能性はなくなった。権力は冷徹である。許さないだろう。

 このような政権や政治家から行政への要請や場合によっては圧力とも受け取られかねないものがあるのが現実である。どの役所も役人もそれは避けられない現実として受け止め、その影響を極小化したり、時によってはそれを利用して組織を大きくしたり、あるいは自分の立身出世に利用したりしている。公正で公平な理想的な行政を行いたいと思っている役人にとっては辛く、耐えられないことになる。一方で、政治家の要請をうまく利用する役人にとってはうま味のあることとなる。政治家と役人は持ちつ持たれつの関係であるからだ。
 そういう意味では、今回の要請は特別のものではないのだが、前川前次官の個人的信念が突き動かし、行動に出たのだと思う。官邸に引責辞任を迫られたことに対する腹いせであるとは思わないし、ましてや安倍政権を揺るがすつもりもないだろう。正義の人なのだ。

 このような政治家と役人の関係はけっしてなくならない。それは民主主義の抱える欠点だからだ。政治家は選挙で勝たなければならないが、それには多くの国民から支持されることがマストだ。国民はマニフェストを読んで、より良い政治を行ってくれそうな候補者を選ぶものという前提があるが、実際は国民は自己の利益に叶う候補者に投票している。投票の見返りとして、政治家に行政に働きかけてもらいたいと考える国民がいてもおかしくはない。政治家の立場からすると、理想的な政治を行いたいと思いつつも、次の選挙に勝たないことには政治家のポストが維持できないので、しだいに国民や知人の要請に耳を傾けることになってしまう。民主主義の制度設計上、避けられないことだ。国民は聖人ではなく、政治家同様に欲望の塊だからだ。

 前川次官は総理の意向が記された文書の取り扱いを巡り、忸怩たる思いだった。そして、記者会見により政治と行政の関係が表面化したのだ。忸怩たる思いで仕事をやっているのは役人だけではあるまい。会社の社員も上司から道理に合わないことをやらされ、悩みながらも家族のためと我慢しながら生きている人も多かろう。多かれ少なかれ、世間で生きると言うのはそういうことなのだ。人々は常に板挟みの状態でもがき苦しんでいる。だからと言って、我慢できなかった前川前次官の証言を批判するつもりは毛頭ない。それは彼の人生の選択である。耐える人やそれを逆手にとって人生を乗り切る人もいるが、おかしい、許せないとして事実を告発する人もいる。どちらが正しい選択とは言い切れない。人生には多様な選択があっていいと思う。

 今年3月まで文科省職員の身分で文科省傘下の法人で働いていたわたしとしては、定年退職後再就職せず、そのような世間とは一線を画し、もっと自由で美しい生き方をすることに決めた。俗世間は煩わしい。
 資本主義は人間をお金の奴隷にしてしまうから嫌いだ。民主主義は政治家を劣化させるから嫌いだ。でも、資本主義も民主主義もなくてはならないシステムなのだ。それが現実だ。
 ただし、その現実を一皮めくると、異なった様相をしたリアリティ(実存)が立ち上がるのではないかと一縷の望みを抱いている。そのヒントは、芸術であり、旅であり、人々の絆である。これらを通じて、世間と関りをもって生活をしつつも、生き甲斐を感じられれば、地球上で生きていける。その可能性に挑戦をしたい。

 スペイン巡礼の旅まで1週間になった。心の半分は日本にない。どのような出来事があり、出会いがあるか不安と期待が入り混じっている。これも人生のダイナミックである。

(2017年5月26日、寺岡伸章)
12345 (3 投票, 平均値/最大値: 5.00 / 5)
読み込み中 ... 読み込み中 ...

生活が第一

 定年を迎え仕事を辞めると、暇になると思っていたが、そうではないことが分かってきた。毎日の生活を送るうえで、結構忙しいのだ。
 昨日は電車に乗って、熊本市のデパートまで買い物に行った。ゴルフウェアのパンツ、半そでシャツ、アンダーウェアを買ったのだが、最終的な選択に行き着くまでどれが似合うかと妻と話し合いが続く。どれもこれも欲しいのだが、それなりの色とデザインのものに落ち着いた。
 今まで試着は面倒と思っていたが、やってみると面白い。ショッピングも楽しめるようになれそうだ。生活を充実させるための重要な要素であるにちがいない。仕事で何かを生み出すこととは異なる世界がそこにはある。仕事が価値があり、ショッピングは単なる消費にすぎないとは思えなくなってきた。それにしても、購入した3点の商品の価格はゴルフ会員権よりも高価であるのは複雑な気分だった。ゴルフは大衆のスポーツになったけれど、ファッション業界は新しいデザインと素材を創造し続けているということなのだろうか。

 わたしの買い物が終わると、妻の服を買うべく、婦人服売り場に向かった。妻のショッピングはまずフロワァー全体を一周して見渡し、その後気になったお店に入って自分のお気に入りのものを探し出そうというやり方だ。わたしも後ろから付いて歩き回ったのだが、婦人服は紳士服と違ってデザインも色彩もじつに豊富である。このような素敵な服を着た女性が街に溢れていたら、どんなに世の中は楽しいことだろうかと思った。一つ一つを念入りに見ると、デザイナーの工夫が偲ばれる。美的感覚に優れていないと気を引くものが作れない。わたしは最近絵画を描くようになったためか、構図や色彩に目が行くようになった。偏見があるかもしれないが、自分や他人の着る服に関心がないようでは、絵画は上達しないのではないかとさえ思う。
 美術クラブでも、美しい絵を描ける女性は美しい人が多いように感じる。美の追求が人生のワイフワークになっているのだろう。自分も化粧をして合致した服をまとい美しい女性でありたいし、自分の内面の感情もキャンバスに美しく描き出したいという一心なのだ。美こそ人生。なんと素晴らしいことなのだろうか。

 ショッピングを終えて、電車に乗って八代に帰ってきると、雨が降っていたが、フィットネスクラブに出かけることにした。最近は身体を柔らかくするストレッチと筋力増強の筋トレが面白い。まだ、クラブに通うようになって1か月足らずだが、少しだけ硬い身体が曲がるようになったと感じる。筋トレも負荷重量が増えて行くのは面白い。7つの筋トレマシーンで10回づつ、3セットやっている。楽と感じるマシーンは2.5キロづつ荷重を増やしていっている。限界はどこまで先にあるのだろうかと楽しみにしている。身体全体が逞しい筋肉で武装されていくような心地よい気分になる。でも、電車に乗ると席を譲ってもらうとき、複雑な気持ちになる。わたしは年寄りなのだろうか、それとも100キロを歩く超人なのだろうかと。

 ひと汗流して、帰宅すると、知り合いが新車の見積もりを持ってやってきた。わたしは運転しないが、運転手役の妻の気に入った車が決まった。トヨタのハイブリッド車のアクアにした。何回も販売店に足を運び試乗した後に、購買すべき車種が決まったのである。これで生活基盤がまた一つできたと言える。行動の範囲と機会がグンと増えることになるだろう。

 生活が第一である、と謳った政党があったが、まさにその通りである。仕事は生活に必要なお金を稼ぐ場でしかない。なるだけ多くのお金を楽して稼ぎたいのが人情であるが、どうせ拘束されるのであれば、自分の好みと能力に合ったものがいいに決まっている。でも、それが分からないのが課題である。多くの友達が定年退職のときに自分はこの仕事に合っていなかったので、ずいぶん苦労したとこぼしている。本当にそうなのかどうかは検証してみないと分からないが、人生は苦労はよく覚えているということなのかもしれない。
 他人と比較してはいけない。自分の人生は自分で切り開くしかないのだ。苦労も楽しみに変えていく柔軟な発想があるかどうかが多くのことを決するような気がする。
 今日一日はとても長かったが、でも充実していた。夢を抱いて前に進もう。

(2017年5月10日、寺岡伸章)
12345 (まだ評価されていません)
読み込み中 ... 読み込み中 ...

野性味

 日本の教育に欠けているものは野性味と思う。教室の中で教師の教えることを素直に学び、多く記憶できた生徒が優秀とされ、社会のリーダーとなっていく。教科書で扱われる知識は整理された過去のものばかりだ。きれいにまとめあげられた知識は人工的で退屈でさえある。これらを素直に学ぼうと言う生徒は忍耐力があるにちがいないが、独創的であるとは限らない。
 そもそも人間の営みは過去においても未来でも、うまく説明できないものが多い。知識として体系化されているのは、無理にある価値観で押し込められているものであり、生き生きしたものではない。自分の人生を切り開く価値観は思考実験や失敗を繰り返しながらも、自ら学んでいくしかない。それが役に立つ知識なのだ。人間関係を如何に解決していくかといった大切なことは、教室で教えられることはない。それは知識体系にまとめられないほど複雑怪奇であるからである。心が躍る重要なものほど知識になりにくい。死んでしまい役に立たない過去のものほど知識になり、教えることが容易である。

 教室を飛び出して、街に出よう。さらに郊外に行き、自然と触れ合おう。
 山奥に行けば、神々やご先祖様にも巡り合うことができる。教室の外はリアルな世界だ。そこは実践の場であり、活躍の戦場でもある。人は世間に出て、能力を発揮し、実績を積み重ねていく。各自いろいろな人々と出会いながら、人生を築いていく。人々の信頼を勝ち取るのは知識の豊富さや学齢ではなく、諸問題を解決していく上で役に立つ、生きている知見や経験を所有しているかどうかである。心に響く納得感がなければ、その人に付いていかない。それらの知見や経験は世間や自然から直接学んでいくしかない。その世間の中には尊敬できる先生や先輩や上司も含まれるため、人生の初期の段階でそのような人々に巡り合ったかどうかが大きく影響してくる。大切なものは個人レッスンを通じて教えられる。自然も頭で学ぶものではなく、体感するものである。
 平坦なトラックを速く走れることよりも、舗装されていない傾斜のある野山を着実に走れる方が大切だ。温水プールで速く泳ぐよりも、海や河川の激流の中を溺れずに泳ぐことで多くのことを学べる。自然は偉大な教師である。

 自然の中で鍛えなければ健全な危機感は身に付かない。自然は恵みを与えてくれるだけでなく、脅威を及ぼし生命を危険に陥れる。世間も同じだ。常にリスクと背中合わせである。計算や思惑通りに事が進む可能性はほとんどない。
 人間が文明化される前から生得している「野性味」を活性化することがリスクを回避させる。知識の底に横たわる真実の海の存在を感知し、それを理解することが重要である。その野性味を身に付けないことには困難を乗り越えられない。きつくなると、安易な道を選んでしまわないようにしなければならない。プレッシャー下でも、頭をフルに働かせ、アイデアを生み出していく強靭な精神力が欲しい。
 帳簿を操作し、見せかけの利益を生み出そうとする幹部は会社に要らない。消え失せろ。外部に発散されるエネルギーだけがぎらついているが、もっともらしい政策を振りかざすも知的戦略性に乏しい政治家は議会から去れ。君たちはリーダーになる資格はない。

 ニッポンはどこで人材を育てる道を誤ってしまったのだろうか。野生的思考が大切だ。ヨットから蹴落とされても、這い上がってくる逞しい者が求められている。知識や学歴が豊富でも、ひ弱で体力のない指導者は必要がない。
 野性味こそ求められている。

(2017年5月8日、寺岡伸章)
12345 (まだ評価されていません)
読み込み中 ... 読み込み中 ...

悠々自適

 いよいろ定年退職後の自由な生活を満喫できるときがやってきた。今まで組織の枠組みの中に閉じ込められたり、勘違い上司や訳の分からない部下に悩まされながら(相手も同じことを考えていたと思うのでお互い様だが)仕事をやってきたのだが、これからは自分の時間を好きなように使うことができる。何をなってもいいし、何もやらなくてもいい。褒められることも、叱られることもない。主人公は自分であるし、評価者も自分なのだ。世界は自分を中心に廻っているのだ。解放感を満喫したい。

 最初の月曜日がやってきた。早朝6時前に起き、NHKのテレビとラジオの語学学習からスタートだ。英語と中国語にブラッシュアップをかけ、さらにスペイン語、フランス語などに挑戦し、その成果を現地で確認したい。時間はあるので、格安の海外貧乏旅行を楽しむためにも外国語は必須である。夢は地球を駆け巡る。

 語学番組が終わると、荒川沿いの徒歩だ。いつもの約14キロコースをできるだけ速いスピードで歩くのだ。平日のため、散歩していたり、ジョギングしている人はやはり少ない。本格的な春で気温も上昇し、汗が出る。競歩の講習会に参加した成果のためか、2時間を切るスピードで帰宅した。平均時速7キロ超に大満足。途中のトップスピードは時速8キロを超えていた。フォームが安定してくればもっと速く歩けるようになるだろう。どこまでいけるか楽しみである。

 帰宅後、国民保険加入と転出手続きのために妻と区役所に出かけた。4月最初の月曜日とあって大変混雑している。年寄りがやたら多い。仕事を辞めたのだから、今後どこに行っても年配者ばかり見かけるようになるだろう。2月に参加した熊本城マラソン大会では周りの選手は若い人ばかりで、違和感を覚えたのを思い出す。42キロも走るというのに、若者はみんな笑ってはしゃいでいた。それが若さというものだろう。でも、区役所では笑い声はどこからも聞こえない。
 結局、手続きが完了するまで2時間もかかった。時間はいくらでもあるからと言っても2時間はかかりすぎる。ITの時代にどうにかならないものかと思うのだが、現状を変えたがらない役所だから変化は期待できないかもしれない。政府や地方自治体の業務が効率化する国が繁栄を勝ち取ることになるだろう。新興国は一発逆転を狙っているような気がする。日本は他の先進国とともに没落するのだろうか。

 自宅に戻ると、引っ越しのための資料の整理が待っている。ほとんどはゴミ箱行きなのだが、中には対応しなければならないものを発見する。住居変更手続きがまだやってなかったり、定年退職の挨拶をやっていなかった知人も思い出す。さっそく、電話をかけたり、メールを出したりする。時間はあっという間に過ぎるというが、それは過去を詳しく思い出せないからだと思う。古い資料を読んでいると、よくもまあこんなに多くことをやってきたものだと感心させられる。さまざま活動に参加したり、多様な人々と会ってきたのだ。名刺やハガキを見ても、顔を思い出せない人がいるのは少し寂しいような気がする。相手はこちらのことを覚えているのだろうか。もしそうであれば、申し訳ない気持ちが湧いてくる。名前を忘れないように、もっと丁寧に人と接するべきなのかもしれないと思う。

 その作業が終わると、近くの区民センターのプールにでかけた。プール利用のプリぺードカードの残高が少し残っていたので、それを使いたかった。収入がなくなったのだから、節約を習慣化しなければならない。50分プールで泳いだのだが、昨日に次ぐ連日のスイムのため肩のあたりに疲労がまだ残っている。途中で上がろうかと思ったが、外は雷が鳴り豪雨のようだ。傘を持ってきていなのだから、外出はできない。しかたなく、プールの中で泳ぎ続けた。平日と大雨のため泳ぎに来ている人はほとんどいない。1コースを完全に独占できた。相手の泳ぎのペースに合わせる必要がないので楽ちんである。

 市民プールを出たところで、傘を持って迎えに来た妻に出くわした。そのころには雨はほとんど止んでいて、二人で苦笑した。せっかくだから、セリ鍋でも食べに行こうかという意見で一致した。知り合いのお店で、別れを惜しんでお酒を飲まされ、競歩とスイムの疲れも相まって、酔ってしまった。でも、セリ鍋は美味しかった。健康的な食事だった。帰宅後は風呂に入るとすぐに布団に潜り込んだ。これが記念すべき1日目だった。

 2日目の火曜日も早起きして、NHKの語学番組を視聴した。朝食後、引っ越しのためにノコギリを使ってテーブルや椅子の解体を始めた。バラバラにして廃棄するのである。ノコギリを使うのは久しぶりのため当初うまく切れなかったが、慣れてくれば面白い。それでも、額に汗が噴き出てくる。休み休みやらないと息が上がってしまう。何事もゆっくり着実にやることに限る。午前10時には一通りの作業を終えた。

 外出だ。まず、歩いて40分の距離にある六義園に向かった。シダレザクラを鑑賞するためだ。昨年は大混雑のなかでライトアップされた大木の桜を楽しんだのだが、今年は空いている時、昼間の桜を見たかった。でも、平日と言うのに入場まで10分待ちの人出だ。ここも年寄りばかりだ。若い人は仕事をしているのだからいないのは仕方ないが。シダレザクラは7、8割咲きというところか。でも、満足した。

 本郷通り沿いにも多くの桜の木が植わっている。それらを楽しみながら、東大総合研究博物館を目指した。東大の先生たちが研究で採集したものを集め、展示してあった。欲を言えば、日本を代表する大学にしてはコレクションが貧弱なように思える。お金がないというのはコレクションに即反映されるのだろう。

 歩き続ける。後楽園を経て、靖国神社でお参りして、桜の名所の千鳥ヶ淵に到着した。ここも人でごった返していた。少々疲れる。時間を見計らって、「東アジア地域包括的経済連携(RCEP)」のセミナー会場に向かう。
 米国がTPP交渉から脱落したため、米国が含まれていないRCEPの行方が注目されている。今年はASEAN創立50周年ということもあり、一気に交渉がまとまるのか、それともグローバル化や自由貿易のブームが一段落しているため、継続交渉になるのか気がかりなところだ。米国はRCEPは中国主導の枠組みと考えているため、まとまって欲しくないだろう。
 今日のセミナーはセミクローズドで、講師は経済産業省の交渉担当官ということもあり、面白いことが聞けるかと興味を持った。講演後、交渉の内容について鋭い質問が飛ぶのだが、講師はその内容を詳細に語ることはなかった。そのため、質問は細切れになり、仕舞いには予定よりも40分早くセミナーは終わった。役人の立場では、国家間の交渉事であるため、日本の戦略も含めて多くを語ることは許されていないのだろう。でも、質疑応答のやりとりから判断すると、今年中の合意は困難だという印象を強く受けた。米国政府は安心だろう。

 セミナー会場を後にすると、徒歩で王子の賃貸住宅まで戻った。2時間近くかかった。夕食は引っ越し準備のため調理できないので、近くのレストランで食べることにした。わたしはトンカツ定食を注文し、妻はカツ煮定食を食べた。カツ煮は味が濃い過ぎたそうだ。

 明日の朝食をセブンイレブンで買って帰宅した。万歩計は3万7千歩を示していた。毎日3万歩をクリアする予定だが、3万7千は少し多すぎたようだ。風呂に入ると、睡魔に襲われ8時30分に寝てしまった。

 今日も少し頑張り過ぎたかもしれない。これでは仕事をしていた方が楽だなと苦笑してしまった。

(2017年4月5日、寺岡伸章)
12345 (1 投票, 平均値/最大値: 5.00 / 5)
読み込み中 ... 読み込み中 ...